2024年10月18日金曜日

ひたむきな人の姿


今年も日本家族療法学会に参加してきた。そこで訪問診療をされているクリニックが複雑な環境にある家族全体を必死でサポートされた内容の発表を聞いた。

どんな学会に行っても思うことだが、発表内容はこんなことができた、こんなことがわかったなど、ともすれば自らのすごさのアピール合戦の様相を呈しがちである(それに僕も加わっているのだが)。新しい知識は得られるものの、どこか虚しさが残る。すごさのアピール合戦は学会なのだから当然ともいえるが、人の心を打つのはすごさではなく、ひたむきな人の姿なのだと思った。すごい発表も大切だが、ひたむきな人の姿のほうが僕は好きだ。

2024年10月11日金曜日

我慢して生きるほど人生は長くない

 この数年だろうか、臨床についての短文の執筆や教育の依頼の話をいただくようになった。以前の僕なら「自分はまだそんなレベルじゃない」とお断りしていた。ところが最近は我慢できる体力がなくなってきたのか、自己否定にそろそろ嫌気がさしたのか、そのような依頼を受けるようになった。

 自分は何をしたいのか。ずっと考えてきた。執筆と教育は臨床と並んで僕が人生で本当にしたいと思ってることだ。それを考えているとき、ふとこんな言葉が浮かんだ。

 人生はやりたいことを我慢するほど長くない

でもこれってどこかで聞いたことがあるなと思った。調べてみると「我慢して生きるほど人生は長くない」という題名の本があった。この本は読んでいないので僕が感じていることと本の内容が同じかはわからない。でももしかしたら僕はどこかでこの題名を見て思いついたのかもしれない。それでもいい。自分の言葉なのか他の人の言葉なのかが大切なのではない。今の僕の心に響くかどうかが大切である。

 我慢して生きるほど人生は長くない

それにしてもいい言葉だ。

2024年10月4日金曜日

心を今ここに置く

 まだ日差しが熱い休日の昼下がり。ベランダの地べたに座って足の爪を切っていた。地べたからの温かさがクーラーで冷えた体をぬくめてくれるのを感じながら、ぼーっと足の爪を切っていた。すると自分の心が休まっていることに気付かされた。何をしているわけでもない、ただ足の爪を切っているだけなのに。

 これに似たことを数年前のブログに書いた記憶がある。心を今ここに置く。それができるとこれまで悩んでいたことの答えが見つかったり、うまく書けなかった文章のいいアイデアが浮かんだりする。頭をせわしなく動かすことをやめて心に余裕が生まれると、心が休まり、創造性も生まれるのだ。

 今これを書いているということは数年経っても、心を今ここに置くことがまだ自分のものになっていない証拠なんだと思う。人は自然にできるようになるとそのことは意識しなくなるからだ。自分の情けなさを感じながら、人はそんなのものなんだと自分を慰める。


2024年9月27日金曜日

歳を取ると自分の感覚に敏感になる

 人脈が大切だなんて言われて以前は集まりに参加したり、たくさんの人に会いに行っていた。でもそれが僕には大切ではないと気づき、今は自らそのような場に行くことはなくなった。

 歳を取ると体力が落ちるせいか、自分が嫌なこと、疲れること、好きなこと、満たされることがはっきりしてくる。歳を取るっていいなと思える理由の一つである。

2024年9月20日金曜日

人は物理的な距離が離れたほうが心は近づく

 批評家の若松英輔さんの言葉だ。

僕は若松さんの言葉が好きでテレビや記事があるとつい見入ってしまう。僕は普遍なんてものはない、普遍って言葉を信じたくないと思って生きている。でも若松さんの言葉は、もしかしたら普遍ってものがあるのかもしれないと思わせてくれる力がある。