2014年12月30日火曜日

時間をかけて良くなる

はじめてお会いするときはすごく状態が悪くて、すぐにでも治療が必要な患者さん。薬を投与すると、速やかによくなって、数か月後にはもう来なくなってしまう。薬は自己中断されている。そしてまた半年、1年ほどすると、同じ症状で受診される(病院なら救急車が多いですね)。精神科医なら誰もが出会う患者さんです。実際に、うつ病の患者さんに抗うつ薬を投与して、半年後には半数以上の人が内服を自己中断しているという報告があるくらいです。もちろん経済的な理由を含めて理由は様々あるとは思いますが。。。

統合失調症、うつ病、双極性障害など、いわゆる精神病で、発病すれば一生続く可能性のある慢性疾患にも関わらず、最近でてきている薬の効果がすばらしくて、速やかによくなる。そうなると、病気の実際の重さよりも、患者さんにとっては「のどもと過ぎれば」の要素が大きくなってしまう。小児科時代なら、喘息やネフローゼ症候群の方に多かった気がします。さきほど挙げた精神病はその人の人生と命(死因で多いのは自殺)にかかわる病気です。

いい薬があることは素晴らしいことのはずなのに、速やかによくなることが果たしていいことなのか、疑問に思うことがあります。

そのために精神科を含めた医療では心理教育といって、医療者が病気の説明を丁寧にして理解していただこうというのが常識です。しかしそれをどれだけ時間をかけて一生懸命しても難しい患者さんがおられます。僕も精神病の患者さんやご家族に毎週のようにお会いして、説明して、それでもだめだった経験がいくつもあります。実際、今クリニックの外来だけの診療になっても結構な確率でお会いします(僕の説明が拙いというのもあると思います)。そのとき、病気って、あまりにあっさりよくなってしまうと、そのときの辛さを忘れてしまうのかなとも考えます。

人は一つのことを深く理解したり、受け入れていくには時間が必要なようです。医者として倫理的にこんなことを思っていいのか自分自身でも葛藤がありますが、病気とはすごいスピードでよくなるよりも、じっくりと時間をかけてよくなることのほうが、最終的にはその人にとってはいいのではないか、と思います。

2014年12月28日日曜日

地道を超える魔法などない

僕は地道なことが苦手で、せっかちなのですぐに結果を求めようとしてしまいます。そんな嫌な性格を直してくれるんじゃないかと思う言葉に出会いました。

先日のプロフェッショナルに出られていた漫画編集者、佐渡島庸平さん、35歳。漫画家と直接契約して、創作をサポートする会社を経営されています。大手出版社から独立して、33歳で今の会社を立ち上げたそうです。

「魔法の一手を探してないんです。僕には魔法の一手はないんだと思って。みんなが面倒くさがっていることをずっとやり続ける。1個1個丁寧にずっとやっていくことによって、爆発するんだというイメージがわいてると、その1個1個の面倒くさい作業っていうのも、必要な作業だから楽しみながらできるんです」

すごく説得力がありました。僕は患者さんを診療するという仕事自体は地道であると思っていながら、どこかでホームランを狙ってしまう。一足飛びになんとかならないかみたいなすけべ根性がぬぐいきれません。日々の勉強にしてもそうです。

人は自分の毎日の仕事が単調に見えて(見えてるだけかも)、地道で泥臭いことを軽視してしまう。でもこの地道な作業の先の爆発をちゃんとイメージできれば、1つ1つの仕事や作業を大切にできる。

菜根譚にこんな言葉がありました。


「伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高く、開くこと先なるは、謝すること独り早し」

長い時間をかけて鍛錬したものが長く高く続くことができる。短い時間で花を咲かせようとすると、早く散ってしまう。

日々の地道な仕事や勉強を大切にするために、今目の前にある1つ1つの仕事の先にある爆発を意識してイメージしていきたいと思いました。

2014年12月26日金曜日

人は口に出したままの人生になる

人は口に出したままの人生になる。

こんな言葉を聞いたことがあります。つまり、「幸せだな」と言っていれば、幸せになるし、「自分はついてない、不幸だな」と言えば不幸になる。僕は外来診療が主な仕事で、毎日のように多くの人にお会いしますが、確かに、小さなことに幸せを感じている人はやはり元気になっていくし、小さな不満をずっと言う人はいつまで経っても、そのまま元気になれない。愚痴を言い続けている人はやはり、それ相応の人相、人生になっていく気がしてなりません(もちろん、それを何とかするのが僕の仕事です)。

ある有名な作家さんはあまりに売れない生活が続きすぎて、夫婦でご飯と漬物だけを食べてるのに、「このビフテキうまいなあ」と二人でお互いにしゃべるながらご飯を食べていたそうです。それは一見、空想で馬鹿みたいで、今の貧しさをごまかしているだけに見えますが、自分の気持ちを少しでも幸せな状態にしておく、心だけは貧しくならないために発していた言葉ではないかと思います。

辛い時に、「ついてないなあ、どうせ自分なんて」。自分の心を慰めるために、一時的に人はこんな言葉で自分を慰めます。でも一通り悲劇のヒロインの時間が終われば、最後は「でも私には~があるから、まだ幸せかな」と何か自分が今持っているもので、「幸せだな」で終わらせてあげることが、その後の人生を変えていくのではないかと感じています。

2014年12月21日日曜日

人から評価されるのは危険なこと

最近、俳優の樹木 希林さんが旭日小綬章を受賞され、そのときにインタビューで「人から評価されるのは危険なことです。賞をもらった時に自分を見失わないようにすれば、次につながる」と言われたそうです。

この人はわかっている人なんだなと思いました。日本を代表する俳優であり、これまでたくさんの評価を受けてきた人の言葉がこれとは。この世の中、みんな自分のことを評価してほしくて仕方ない人たちばっかりなのに、受賞した時にこの言葉が出てくるということは樹木 希林さんは常日頃からこんなことを思っているのでしょう。


人から評価を受けた後に、どういう行動をするのかが大切であることを学びました。



2014年12月17日水曜日

自分で自分の頭を撫でてあげてください

「自分はこんなにがんばっているのにな」って思いながら、なかなか結果が出ない、認めてもらえない。むしろそれが裏目に出て人からの批判を受けたりすることもあるでしょう。一方で、自分のがんばりを認めてもらえたり、ほめてもらえることなんて、ほとんどない。ごくたまにあるくらいです。多くの場合、心の中で一人でみんな耐えている。最終的には今の辛い現状をやり過ごすためには自分で自分を慰撫するしかないと思うんです。自分にとっての一番の主治医は自分です。

生きてるだけで辛いことはほっておいても勝手にやってきます。そんな状況にありながらも人は歩いている。そういう意味で行くと、がんばってない人なんて世の中にいないんじゃないかな。辛くなった時は、実際に「えらい、えらい」って言葉にして言いながら、自分で自分の頭を撫でてあげてください。今を生きてるだけで、十分がんばっているわけですから。

2014年12月15日月曜日

やせているということが美徳になる文化

僕はプレゼンにすごく興味があって、好きなので、NHKのスーパープレゼンテーションをよく見ます。

今回はアメリカを代表するトップモデル、キャメロン・ラッセルさん。彼女は「ファッション業界の偏った美しさの基準が世の女性たちを苦しめている。痩せた白人が美しい、そのイメージを広めてきて、罪悪感を感じるし、非難されて当然」。摂食障害の人たちに向けてそんなメッセージを送っています。

やせていて、スタイルが良くて、服を買いに行った時に似合う体でいたい。多くの人が思うでしょう。僕もそう思います。でも太っている女性が美しいとされる国もあるわけです。僕らの価値観って、所詮、誰かが作りだしたものに乗せられているだけなのかもしれません。

当院にも摂食障害で悩む患者さんたちが来られます。自分の体型のことが頭から離れないし、それを気にしすぎていることも重々承知している。でも体型のこと、食べ物のことが頭から離れない。しかもそんな話を人にできないし、自分でもどうしたらいいのかわからない。やせていることは美徳であり、他のことはだめだけど、やせている自分だけは肯定できる。もしかしたらやせていることだけが自分を肯定できる唯一の材料なのかもしれない。すべて僕が患者さんからお聴きした言葉です。

もちろん、やせていることを美徳とする文化だけが原因ではないでしょう。しかしその一端を担っているのは事実かもしれません。

またキャメロン・ラッセルさんはこうも言っています。「女性の価値を見た目だけで判断する社会は馬鹿げている。ファッションを楽しんで、内面も磨いてほしい」。摂食障害で苦しむ患者さんたちに何か助けになればと思います。

2014年12月13日土曜日

人間万事塞翁が馬

今年のプロ野球パリーグのMVPはオリックスの金子投手でした。16勝5敗、防御率1.98。負けない投手との評価で、オリックスでは1996年のイチロー選手以来だそうです。

金子投手はリーグを代表する投手になれたのは?という質問に「けがをしたから」、「投げられなかった時期にどうすれば抑えられるか、他の投手が考えないようなことを考えた」と述べていました。

僕は新聞でこの2つの言葉を見た時、いろんなことが頭を巡りました。一つは「人間万事塞翁が馬」という言葉。これは何が禍で、何が幸せなのかわからないというあまりにも有名な故事ですね。金子投手はけがをして、思うように投げられない時期を過ごしたわけです。そのことで、自分のピッチングを見直すことになり、今回のような結果が得られた。

そしてもう一つ。自分が投げられない、つまり仕事ができないときに何を考えるのか。辛い状況をただ我慢するのではなく、その時期に打開策を模索するということ。これはさらに一段階辛いこと。いや、辛いからこそ打開策を人は考えたくなるのかもしれません。

いつも思うことですが、人は調子や状態がいいときは誰でもご機嫌に楽に過ごせます。大切なのは苦しい時、雌伏の時をいかに過ごすのかなのでしょう。

2014年12月9日火曜日

ちょっと損をしたらいい

僕の祖父は1940年に韓国の田舎から日本に渡ってきました。祖父の家は村で一番の貧乏で、祖父は給食代が払えず、小学校4年生までしか学校に行けなかったそうです。その当時日本の統治下にあった韓国の田舎には職がなく、日本に行けば仕事があるらしいという噂を聞いて、祖父は18歳で日本に渡ってきたそうです。それから60年余りを日本で過ごして他界しました。その祖父がいつも言う口癖がありました。「ちょっと損をしたらいい」。

僕の中ではこの言葉が特に印象が強く残っていました。なぜなら僕自身、幼いころから自分が打算的でせこい人間であることを知っていたからです。なので、自分自身が人との関係の中で損をしてるということを感じると、いつも自分を慰めるためにこの「ちょっと損をしたらいい」という言葉を思い出すようにしていました。ちょっと損をすれば、あとで自分にまた運が回ってくるという意味です。

そんなとき、コメディアンの萩本欽一さんの本に出会いました。萩本さんは幼少期は裕福な家庭で育った後、中学生のときにお父さんの事業が傾いたことで、高校に行くための革靴が買えず、学校のあとはバイトをしなくてはならない生活をされていたそうです。そんな中で、萩本さんが高校の夏休みにとんかつ屋さんでアルバイトをしたときのこと、萩本さんを含めて同時に3人の高校生が雇われたそうです。そのときにお店のおばちゃんが「仕事は3つある。カツを揚げる人、配達をする人、皿洗いをする人」と言われた時に、萩本さんは一番に「僕、皿洗いします」と言ったそうです。それを選んだ理由は誰でもカツを揚げたいけど、それを選ぶと他の2人と仲が悪くなる、みんなが嫌がる皿洗いをしたほうがもめない、そしてもしかしたらお店の人によく思ってもらえるかもしれないという理由だったそうです。それで皿洗いを一生懸命にして夏休みを終えた最後の日、お店のおばちゃんから萩本さんだけが呼び止められて、「これからも働いてくれない?」と言われたそうです。そのときに萩本さんが思ったのは自分から損をしてたり、一生懸命していれば、やっぱり誰かが見てくれているということ。

今、ちょうど「私の履歴書」で萩本欽一さんが連載されてますよね。あまりにもうれしくて毎朝楽しみして読んでいます。みなさんもチャンスがあれば、萩本欽一さんの本、読んでみてください。「ちょっと損をしたらいい」。いい言葉だなと思います。

2014年12月6日土曜日

人は逆境にいるときこそ成長している

これまで何度となく、いろんな人や本の中で「中国の古典を読みなさい」と言われてきました。それで中国の古典をたくさん買ったきたのですが、なかなかとっつきにくくて、少し読んではやめるということを続けてきました。しかし、今回、NHKで菜根譚を見て、自分の心に響く古典に初めて出会えた気がしています。菜根譚は16世紀に書かれたとされる処世訓です。実際に読んでみて、これまで自分が悩んできたこと、思ってきたことが400年以上も前に書かれているものの中に答えがたくさんありました。つまり、人や社会は昔から何も変わっていない。色あせないとかそんな言葉で表現できるものではなく、いかに人間社会が普遍的なものであるかを感じました。その中で今回読んでみて、一番いいなと思う言葉を紹介します。

逆境の中に居れば、周身、皆鍼砭(しんべん)薬石にして、節を砥ぎ行いを礪(みが)きて、而(しか)も覚らず、順境の内に処(お)れば、満前(まんぜん)尽(ことごと)く兵刃戈矛(へいじんかぼう)、膏(あぶら・こう)を銷(とか)し、骨を靡(び)して、而かも知らず。
これを訳してみると以下のようになります。

人間は逆境にいるときは、悪いことが重なっても、身辺に起こるすべてが鍼や良薬であって、節操や礼節を高め、行いを磨き研ぐように、真剣にことに当たっているが、自分では実はそのことの大切な意味を悟っていない。ところが順境であるときには天が味方してくれているように思い、周辺のすべてが実は、刀や矛となって自分に鋭い刃を向けている、すなわち、骨身を削られ、体をとろけさせられ、骨抜きにされているのに、自分ではそれに気づいていない。

確かに僕の短い経験を振り返ってみても、順調なときはそれほど自分が成長してるとは思えず、むしろ、何かこれでいいのかなと内心は不安です。でも逆境にいるときは人として成熟し、成長していたように思います。

人は逆境にいるときこそ、知らない間にプラスになるものを得て、成長している。逆境にいるときはその問題を解決するために一生懸命に考えて、苦しいながらに耐えて、なんとか生き残るために人は努力します。でもその時は本人は余裕がないので、それをあまり意識していない。一方で、順調な時は流れに身を任せていれば、それなりに結果が得られるため本当の意味で成長することは難しい。むしろ危険が近づいてきているのに気付かずにいる。ここでさらにすごいのは逆境にいるときも順境にいるときも当の本人はそれに気づいていないという点です。

僕がここで感じた事は逆境のときは苦しい中でもがいているから、ほっておいても成長できます。そしてその成長があとで役に立つ。でも順調なときはそのときが楽なので、努力することを人は忘れがちです。成長が止まるわけです。逆境にいるときはほっておいても人として成長しているのだから、ある意味幸せで、人として最も大切な時間なのかもしれません。そう考えれば、今逆境にいる人も、少し心が軽くなるのかな、なんて思います。

2014年12月2日火曜日

その人のことを本気で労う

人は心が弱った時、自分を否定しがちです。自分の何がダメだったのか、やっぱり自分ってダメなんだ、頭が悪いから、もともとできる人とは自分は違う、などなど。否定的な言葉が頭の中にどんどんわいてきます。

仕事、家族、学校、社会での失敗、悲しい体験などいろんな話をお伺いします。多くの方はその中でもその人なりに精一杯やってこられた方がほとんどです。僕はお話を聴くときはなるべく客観的に聴くようにしています。それでも、どう見ても、一生懸命やってこられたと思うことのほうが多いのです。その当たり前のことにその方自身、周囲の人も気付けてあげられていないことが多い。その当たり前のことをお話しすると、少し表情が柔らかくなることがあります。そこから、その患者さんと少し関係ができるようになると、ご自身のいけなかった部分、言いにくいところもお話してもらえます。

仕事で失敗を繰り返し、周囲からいつも厳しい評価を受けている方がおられました。そこでその人の仕事の課題とその対策を毎週ノートに書いてもらい、その詳細を一緒に見ていきました。すると、その人なりのがんばりがよく見えてきました。そしてその努力を労うと、その方は「いつも先生のその言葉を聞きに来てるんです」と。そのときに気付いたのです。人は苦しい中でも自分が何かを一生懸命しているときに、誰かにそれを気付いてもらいたい、労ってもらいたい。精神科医として、そこにちゃんと気づくアンテナを張れているのか、そこが大切なのだと思いました。

2014年11月30日日曜日

患者さんのお気遣いに支えられている

開業してまだ1年4か月ですが、当院の患者さんは少しずつ増えてきています。本当にありがたく思っています。

そんな中、多くの患者さんを診療することになり、患者さん一人当たりにさける時間が開業当初に比べて減ってきています。待合室で待っている人が多いのを患者さんがみて、遠慮して話したいことを減らしてくれていたり、前回の診察以降の様子をメモしてきてくれる親御さんもおられます。それを感じると、ありがたくもあり、内心申し訳なくなります。患者さんのお気遣いに支えられているんだなと。

なので、僕は外に出て、お店に入った時には店員さんに優しくしたいなと思います。お金を払うお客さんだから偉いというのではなく、店員さんとお客さんのお互いの気遣いがあれば、両者が気持ち良くその時間を過ごせる。当院としては患者さんのお気遣いをしっかり受け止め、そのお気遣いに対してお応えできるよう、スタッフ一同、日々丁寧な対応を忘れずにいたいと考えております。

2014年11月27日木曜日

仕事のストレスは仕事で解消する

アフターファイブを楽しもうとよく言われます。仕事はしんどいもの。だから仕事以外の時間でストレスを解消して、明日からのしんどい仕事をまたがんばろうと。

でも果たしてそうなのでしょうか。僕も社会人になって、まだほんの10数年ですが、仕事で受けたストレスをアフターファイブで解消できたという経験はありません。もちろん、旅行や遊び、趣味の時間は大切です。明日からの活力の一部にはなるでしょう。でもそれはあくまで一部です。いくらアフターファイブで楽しんできても、職場に戻れば、そのストレスの問題はそのままです。解決しているわけがありません。

最近、僕が思うのは仕事で受けたストレスを解消するためには、仕事が楽しい、うまくいった、結果が出せた、やりがいを感じるなど、根本的に仕事でしか解消できません。ただただ、毎日「またこれかあ、いやだなあ」では何も解決しません。

ではその仕事でのストレスを解消するためにはどうすればいいのか。そのストレスの原因を解決するために考え、向き合い、そして努力する。技術を上げる、仕事の中に楽しみを見つける、クライアントに喜んでもらう、自分の得意分野や強みを見つけるなど、方法は仕事によって様々でしょう。転職するのも一つの方法かもしれません。でも結局は仕事でのストレスにしっかり向き合わない限り、仕事への不平不満を言って、人生が終わってしまう気がします。

僕の尊敬する編集者の見城徹さんは「仕事が楽しければ、人生も愉しい」と言っています。単純に仕事の時間8時間、寝る時間8時間、自由な時間8時間とすれば、仕事が楽しくない場合には人生の半分はしんどいだけの時間を過ごして、終業時間が終わるまで耐えて待つということになります。そんな人生にならないために、仕事のストレスを仕事で解消できる方法を見つけられたら幸せではないでしょうか。

2014年11月22日土曜日

いい人に出会うこと

俳優の高倉健さんは出演した映画の封切が近づくと、一緒に仕事をした共演者やスタッフとの別れがさびしくなり、機嫌が悪くなったそうです。人への気遣いとやさしさにあふれる人。実際に高倉さんと仕事をした人たちが口をそろえる言葉でした。

そんな高倉さんにある若者が「どうしたらあなたのような人になれますか?」と質問したところ、「いい人に出会うこと。人に優しくなるためにはきつい風にばかりに吹かれていてはなれない。いい風が吹きそうな場所に意識して、自分の体、そして心を持っていかなくてはならない」

深い。。。

人に優しくしてもらったり、大切にしてもらう経験をせずに人に優しくなることはかなり想像にしくい。なのでもちろんいい人に出会うことが大切。しかしそれだけではなく、自分からいい人に出会える場所を意識しながら探して、自らの身や心をそこにおくための努力をすることが大切である。そんな意味だろうと解釈しました。

人の出会いは人生を変えます。いい出会いをするために、いい風が吹きそうなところを探していきたいと思います。そのためにはいろんな場所に行き、失敗もしながら、その探し方を探ることも大切なのかもしれません。そうしているうちに、自分の感覚が研ぎ澄まされて、探すことが上手になれたらいいなと考えています。

2014年11月20日木曜日

自分の中にある違和感を大切にする

日々の診療の中で、自分が患者さんに言っていることに自信を持っているときは実はそれほど多くありません。内心、「それほんと?」、「うそじゃないの?」というような自分の中での違和感があるときがあります。もしかしたら、それよりもいい言葉、見立て、治療法があるのではないかと思います。

今、自分がしている治療に対して違和感をもったり、懐疑的であることは僕にとってはすごく大切なことです。なぜなら、その悩みを自分の中でいつも貯めていると、勉強しているときに、「あっ、あのときの悩みはこれで解消される!」と思えるときが来るからです。僕の場合、これを思えたのが、山上先生の行動療法、東豊先生のシステムズアプローチに出会ったときでした。治療することを最終目標として、人の話を聴くというのは実はそんなに簡単なことではありません。僕は大学を卒業して、小児科医になったとき、最初にまず自分が何を聞くべきなのかをわかりませんでした。精神科医にかわったときも、それまでの医者としての経験と教科書に書いてあることから、とりあえず通り一遍のことを聞いていました。でも、それをしていて、自分としてすごく違和感がありました。「その情報、ほんとに必要?」と心の中で思っていました。正直言えば、今もそれはまだあります。

この二人の先生の共通点は診察の中でなんとなく質問したり、声掛けをするのではなく、その時の言葉や態度にすべて理由があります。つまり、ちゃんと最終的な目標があって、質問している。

医者の実力は患者さんに対して、何を問診するかでわかります。ちゃんと勉強している医者はその質問をするのにはその理由があります。勉強していないと、なんとなく情報を集めて、なんとなく治療します。それに対する違和感をためて、勉強をしていけば、質問が適格になり、患者さんの状態像を正確に把握でき、治療の質は上がります。

これはどの仕事でも同じだと思います。日々仕事をする中で、面倒になって流してしまいがちな違和感を自分の中でいかに貯めておけるのか。そしてそれと向き合う時間をちゃんと持てるのか。それが現状を打開したり、成長したりするためには不可欠なことなのでしょう。すぐになまけてしまう自分に対して、言っておきたいなと思い、今日は書きました。

2014年11月18日火曜日

人生で辛い時の人に関われるということ

辛い時に、音楽を聴く、芸術を見る、映画を見る、本を読む、人に会う、旅をする、おいしいものを食べる、自然を見る。いろんな対処法があると思います。

これらの対処法を職業としてみていくと、音楽は音楽家や歌手、芸術は創作家や芸術家、映画は監督や俳優、本は作家、人は家族や友達や精神科医?(笑)、旅は旅行社で働く人、おいしいものは料理人、自然は自然を保護したり維持するために働く人。

ここに収まらない仕事も含めて、辛い時を迎えている人の力になれる仕事をしている人たちは、それぞれ同じくらい価値のある素晴らしい仕事をしていると思っています(仕事は自己肯定の一つの手段ですよね)。

人生を生きていて、辛い時を迎えない人はいません。誰しも辛い時を迎えます。その時に誰が、何が自分を助けてくれるのか。僕も誰かや何かに助けてもらってきましたし、これからも助けてもらうことになります。それなら、僕も誰かの役に立ちたい。それが自分の肯定や幸せにつながるから。
精神科医をしていると、「疲れませんか?」とよく言われます。確かにすごくすごく疲れます。でも自分も誰かに何かに助けてもらっているので、辛い人の役に立てることは生きる上ですごく有意義ですし、それを生業にできている幸せを思います。

もっと言うならば、辛い人の役に立たない人はこの世にはいない。誰でもよく考えてみると、誰かの役には立っている。そんなことを思えば、自分自身も幸せを感じることができるのではないでしょうか。

2014年11月14日金曜日

初めてお会いする患者さんをいい人だと本気で思う

僕は最近気づいたことがありました。「この患者さん、話しやすいな、やさしい人だな、がんばってるな」と僕が思えた人は状態がよくなる可能性が高い。逆に、それを思えない患者さんはなかなかよくならない。ざっくりいうと、僕が「この人、いい人だな」と思えた人はよくなりやすい。これって、どういうことなのかと考えました。それは好印象をもてると、その人に共感しやすくなり、ほめたくなり、苦労をねぎらいたくなり、やさしくなれる。そうすると、患者さんも僕のことを肯定的にみてくれる。この循環が治療自体をしやすくし、状態がよくなりやすい。なんか単なる僕のわがままみたいに聞こえますね?(笑)でもこれは一応、ちゃんと理屈があるんです。

実はこれ、僕が今勉強しているシステムズアプローチという心理療法のP(Positive)循環という考え方です。P循環とは愛、喜び、感謝、信頼などの肯定的な考え方が自分の中に多ければ、自分と相手との間で肯定的な循環が生まれるということです。それを自分の治療でどうなっているのかを想像した時に、あらためて自分の治療経験から腑に落ちて、理解できたことでした。今、僕は実はこのシステムズアプローチの第一人者の東豊先生を勝手に師匠と仰いでおります(笑)

それに気づいて、最近意識しだしたことがあります。それは「初めてお会いする患者さんのことをいい人だな」と本気で思うことです。具体的にはその人のいいところ、ほめたいところ、その人なりにがんばっているところを徹底的に探します。そして、そのような肯定的なその人へのイメージを伝えていく。そうすると、患者さんの緊張が和らぎ、話をしてくれるし、僕の言葉も理解しようと努力してくれるし、治療もしやすくなる。大切なのはいい人だと僕が本気で思えているかです(100%は無理にしても)。それが無理をしていい人だと思おうとすると、すぐにばれます。でも不思議なことに、このP循環を意識すると、そんなに努力しなくても、その人のいいところが見えてきて、やさしくしたくなっちゃうんです。

これは普段の僕たちの生活の中でも使える概念なんです。自分が好印象を持った人は多くの場合、相手も好印象をもってくれます。それはこちらの言葉、態度にその人へ好印象が出るからです。初めて出会う人のいいところを見つけるという姿勢をもてば、かなりの確率でその人と仲良くなれます。僕は仕事でたくさんの新しい方にお会いします。この考え方を持つようになって、かなり治療がしやすく、自分としても気持ちが楽になっていることに気付きました。自分が本気で好印象を持てているかは当然自分でわかりますし、何より、初診が終わる時の患者さんの表情や態度で、その日の診察がうまくいったかはわかります。

精神科では「初診を制する者が治療を制する」という言葉があります。この言葉通り、初診のときに僕自身がいかにその患者さんやご家族をいい人だなと思えるか、それがその後の治療がうまくいくのかの鍵になる事に気付きました。

2014年11月11日火曜日

自分の言葉で伝える

先日の新聞でこんな記事を見ました。

プロ野球選手が試合のあとのヒーローインタビューで、「ファンのみなさんのおかげで打てました」という言葉を使う人が多い。最近はみんなが横並びで同じ言葉ばかりいうので、空々しく聞こえてくる。でもある選手が「確かにファンの方の応援には頼る部分がある。でも打席に立って打つのは僕ですから」と。

なるほどなと思いました。もちろん本心でしょうが、「ファンのみなさんのおかげ」という言葉は耳障りがいいし、とりあえず無難。

人に何か気持ちや考えを伝えたいとき、どうしても今まで聴いてきた言葉の中から選んで思いつくものを使ってしまう。それはよくあることでしょう。でも本当に人に自分の気持ちを伝えたいなら、自分の言葉で、自分なりの表現をしていくことが大切だと考えています。そのためには日ごろから本や人の話を通して、それについて考える、日々起こる物事について考える、さらにはその考えを発酵させなければなりません。

大きな業績を残した人たちの言葉をみんな、「すごい、さすがだ」という。それはその人の業績もすごいけど、その言葉のすごさや重みは業績のせいではなくて、その人が一人で思い悩んで、もがいてきた結果、到達した言葉です。その苦労や経過があって、自分なりに考えを発酵させてきたからずっしりと重く、人の琴線に触れるわけです。

イチロー選手がこんなことを言ってました。
偉人の言葉を引用する年配の方がいるがあれはダサいと思う。拙い表現でも将来自分の言葉で伝えられたらなと思う

僕もそんな人になりたいなと思います。

2014年11月9日日曜日

子どもの話を聴くということ

親として、いつも子どもの心を受け止めてあげたいという思いから、子どもの話をずっと聴こうと頑張られる親御さんに出会います。お話を聴いてると、聞きすぎなくらい聞いてるのに、「今まで話をちゃんと聞いてあげなかったから」、この子は不登校になった、元気がない、暴言や暴力があるんだ。ストレスがあるのだから、それを吐き出させないといけないなどなど。

この発想は普通に考えると正しいように思えます。大人の感覚として、自分自身が社会でストレスを受けた時に、ほかの人に話すことで楽になったという経験があるからでしょう。それが我が子だと、ストレスを取り除いてあげたい、ストレスにさらされてかわいそうだから。十分に理解できる思考の流れです。

それではなぜ子どもの話を聴き続けているのに、その子の状態がよくならないのか。僕はそのお子さんは話を聴いてもらいすぎて、何かあるとお母さんが全部聴いてくれるという流れができている。すると、自分で解決しようとしたり、我慢してみようという力が育たない。なので、何かあると常に家で大騒ぎになるわけです。自分のなかで、ストレスを処理させるという練習はやはり必要です。大人になって、人に話を聴いてもらって楽になるというのは、ある程度まで自分で悩んで解決しようとして、それでもだめだから人に話を聴いてもらうわけです。自分でストレスを処理しようとする力が大切なわけです。何でも人に相談していたら、たちまち周りから人はいなくなってしまうでしょう。

もちろん、ケースバイケースですが、こんなに話を聴いてるのになぜよくならないのかと疑問になったときは、話を聴き足りてないのではなくて、聴きすぎているのかもしれないということも考えてみてはいかがでしょうか。

2014年11月3日月曜日

新聞を読みたい

いつからでしょうか。20代のある日から新聞を読むことの楽しみを思うようになりました。世界中のニュースだけでなく、ほっと心温まる話、自分では想像もできないものの見方。毎朝新しい1冊の本が家に届く感覚です。

先日の天声人語に日本新聞協会の最優秀賞になった「おばあさんの新聞」の話がありました。

元島根県出雲市長の岩国哲人さん(78)の思い出。早くに父が亡くなり、家には新聞を購読する余裕がなくなった。でも好きな新聞を読み続けたい。少年は新聞配達を志願。配った先の家を後で訪問して読ませてもらおうと考えた。小学校5年の時から毎朝40軒に配った。読み終えた新聞を見せてくれるおじいさんがいた。その死後も、残されたおばあさんが読ませてくれた。中3のとき、彼女もなくなり、葬儀に出て実は彼女も字が読めなかったと知る。「てっちゃん」が毎日来るのがうれしくてとり続けていたいたのだ、と。涙が止まらなくなった。

心が温まりました。新聞を読みたいという純粋な心におじいさんとおばあさんは心を打たれたのかもしれません。何かを心の底から本当に望んでいる人がいたら、それを応援したくなるのが人情。こんな経験をたくさんしながら生きて死んで行けたら幸せだなと思いました。

2014年10月31日金曜日

クライアントは勝手でわがままが当たり前

連絡なしで予約の日に来ない、いきなり訪ねて来られて診断書をその日に書いてほしい、転院するから紹介状を次の医療機関にFAXしておいてほしい。

仕事をしていて、患者さんに対して「この人、勝手なことを言うなあ」と思うことがあります。いろんな要求を受ける立場の僕らとしては正直、内心、気持ちのいいものではありません。もちろん、それに対して、対策を立てて、真摯な姿勢でまじめに来てくれている患者さんに不利益がないようにしています。

でもこれって、どうなんでしょう。僕が患者さんの立場で、毎日仕事で忙しいし、すごく疲れてるし、会社から早く診断書を持ってこいと言われてるし、次にもっといい医者がいると聞いたので早く行って治してほしいし。。。

こんな風に考えると、十分あり得てしまう。僕もこんな患者さんになる可能性がある。立場や見る角度を変えれば、ありえる話。僕だって、クライアントの立場になれば、適当にしたり、勝手なことをしている可能性は十分にある。だめもとで、わがままなことを電話や窓口で言うこともある。そう思うと、クライアントは勝手でわがままなのが当たり前なのかなと思います。もちろん、そのわがままを通し続けて、相手に迷惑をかけるのは違うでしょう。ただ、その行動をしてしまうことは誰にでもあり得ること。いつも聖人君子な人なんていない。

僕は上にあるようなことを言われて、内心は気持ちはよくないですが、その人の立場を想うと、「もしかしたら大変なのかもしれないな」と思うようにしています。なぜそうするのかの理由は簡単です。その患者さんに大変な事情があって、無理な要求をされたと思えば、僕ら自身の気持ちが収まって、楽になれるからです(笑)そして、そうしておくと、また次の患者さんに優しくなれるから。これって大切なことだと思っています。


2014年10月29日水曜日

夜明け前が、一番暗いんよ

先日のプロフェッショナル、魚ととも生きる男たち。見られましたでしょうか?

明石の鯛は貴重で高値で取引されるそうです。その明石の鯛だけを15歳から現在の71歳まで捕ってこられた方が出ていました。15歳で漁師になって、鯛だけを捕るために漁をしてきたのに、他の魚を捕って生計を立てるしかなく、胃潰瘍になって入院したこともあったそうです。そして、鯛が思うように捕れるようになったとき、すでに50歳だったそうです。

いつまでたっても鯛がとれないでいた日々。漁から帰ってきたら、奥さんが「夜明け前が、一番暗いんよ」と一言。

僕、このとき、なんか涙が吹き出ちゃいました。これに似た言葉はずっと知っていたけど、あらためてこの言葉を聴いて、すごく心に響きました。夜明け前が一番くらい。辛い時に、この言葉は自分を慰めてくれるなあと思いました。

それから、戸田さんがこんなことも言っておられました。
「石の上にも3年やけど、わいには30年かかったわ。人生、25年ずつ3つに区切ったらええのや。初めの若い25年はがむしゃら、次の25年は勉強して、あとの25年はゆとりになってたって考えれば、人生満足やわ。どんな職人だってそうやがな。そんな端から端まで充実した人間なんかおれへんもんな。」

生きていて、結果が出ることなんて、なかなか来ないのが普通。一生結果が出ない人もいるわけです。ある一発芸人さんがテレビで言っていました。「一発でも当てられたのは幸せ。ゼロ発芸人のほうが私らの業界では多いわけですから」。

普段はひたむきに日々の努力を重ねてじっと待つ。僕はせっかちなので、待つということがすごく苦手です。待つことの大切さを自分に言い聞かせる機会をいただきました。

2014年10月26日日曜日

神は代償を求める

ロビン・ウィリアムズさんが自殺で亡くなったそうです。今を生きる、グッド・ウィル・ハンティング、ミセス・ダウト。涙を笑いで表現する。普段あまり映画を見ない僕でも見たことのある作品ばかりです。

人懐っこい笑顔、センスのあるユーモア、あふれる知性。映画の中から十分それらが伝わってくる。こんなすごい俳優っているんだなと学生の時に今を生きるを見て思ったことを思い出します。

長く交流のあった字幕翻訳者の戸田奈津子さんいわく、人前ではエンターティナーだが家族だけの時は物静かな人だったそうです。しかも、その裏で、長年のアルコール依存症、薬物依存症、うつ病、晩年はパーキンソン病も患っていたそうです。

俳優のテリー・ギリアムさんが取材に対して、「あれだけの才能を与えると、神は必ず代償を求める」。僕自身は決して才能を与えられていないので、心配はいらないはずなのに、なぜかこの言葉には背筋が寒くなる気がしました。美人薄命という言葉もありますが、あまりにすばらしいものを持ってしまうと、その代償は大変なものになるのかもしれません。僕はこんなとき、いつも人生はバランスなのだと思うのです。もし調節ができるのなら、できるだけ調節できる範囲で、自分の欲望の7割くらい、そこそこで抑えておいた方がトータルでは幸せなのかもしれない。ただ、ロビン・ウィリアムズさんは才能を与えられてしまったので、自分でもどうしようもない部分があったのかもしれない、などといろいろ想像するわけです。。。

2014年10月21日火曜日

駅のエレベーターに乗る中高生

後ろに高齢者やベビーカーの方がいるのに、駅で高齢者、障害者、ベビーカー用のエレベーターに談笑しながら乗る中高生をよく見かけます。

僕個人としては憤りを感じますが、そういう問題ではなく、少しそこで考えてみました。どうして彼らは他にエレベーターを必要とする人がいるのに、談笑しながら乗れてしまうのか。

いろんな状況が考えられます。他に利用者がいなかった、体調が悪かった、友達に誘われたなど。僕も高校生のときに熱がある日は間違いなく乗っていたと思います。別にここで倫理観を振りかざしたいわけではなく、本質的な問題は他の人を見る視野、想像力、思いやりではないかと思うのです。

生まれつき、誰にも教えられていないのに、親や兄弟、友達に思いやりをもって接することができる子がいます。でも教えないとできない子がほとんどでしょう。ここで僕は教育の力の大きさを感じざるを得ません。視野の広さ、想像力、思いやりは教えることで伝えることが可能です。駅で軽くエレベーターに乗れてしまう子は家庭でどんな教育を受けていたのか。親がその子のために目の前の便利さ楽さを優先してくれたのでしょう。高齢者がいようが、席が空いていれば親がその子に座ることを促してくれたのでしょう。その瞬間的な、親が子に楽にさせてあげられるという考えのもとに。。。

いつもと同じ結論ですが、何も気にせずエレベーターに乗ってしまえる子よりも、周りを見て、高齢者や障害者にエレベーターを譲れる子のほうが社会から愛されるのではないでしょうか。エレベーターを見て、そんなことを感じました。

2014年10月19日日曜日

仕事の自分と仕事以外の自分

「マイクの前では日本一上手なアナウンサー。マイクを離れたら日本一下手なアナウンサーだと思いなさい」

フリーアナウンサーの小林麻耶さんが新人のころ、先輩からこんな言葉をいただいたそうです。

すばらしい言葉だと思います。僕はこの言葉を仕事の本番では自分はできるんだと信じて仕事に臨めということ。仕事を離れたら、どんな人からも学ぶ姿勢で、謙虚になれということだと理解しました。もちろん、仕事で不遜な姿勢を持てというわけでもありません。

いつも思うことですが、僕にとって診療は試合であり、本番であり、バッターボックスであり、試験であり、リングの上に立っていることと同じです。そのつもりで毎日診療に臨んでいます。つまり、試合中にどんなことが起きようが、ひるんでいる暇はありません(もちろん、内心ひるんでしまうことは多々ありますが(笑))。基本的には自分はこの患者さんやご家族にに何かできることがあるはずだと信じています。そして、一度仕事を離れたら、仕事のことは極力離れますし、医者であるという意識もほとんどありません。むしろ、リングから降りている時間帯に十分な休息、充電、あるいは仕事以外の人生を楽しみたいと思っています。その中で医者以外の人に会って、いろんなお話を聴くわけです。それがお鮨屋さんの大将だったり^^

仕事と仕事以外では、いろんな意味で自分のチャンネルを切り替えることは本当に大切であると思っています。仕事をする方々に、何かのお役にたてるかなと今日はこの言葉を紹介しました。

2014年10月13日月曜日

児童精神科クリニック交流会

今年も日本児童青年精神医学会に参加してきました。その中で、今年は児童精神科クリニック交流会という時間が設けられていました。初めての試みだそうです。開業して間もない僕は喜び勇んで、参加させていただきました。そこでは子どもたちのためにという熱い思いを持たれた先生方がたくさんおられた上に、僕と同じように小児科出身の先生方も多く、すごくうれしくなりました。さらには僕が大学6年生のときに「児童精神科をするなら、まず小児科を勉強しなさい」と教えてくれた先生に13年ぶりに再会できました。

先生方の意見の中では、お母さんのケアが大切である、こどもに関わる関係機関から仕事の依頼が多い、デイケアを併設すると経営が厳しくなるなど、僕が感じている問題、知らなかった問題までもが話題になっていました。

全国的に児童精神科医はまだまだ少なく、今後児童精神科医を育てる研修機関として、クリニックが位置づけられるそうです。改めて考えてみても、子どもの心の問題はやはりクリニックが受診もしやすく、症状や問題が複雑化、重症化する前に受診される患者さんが多く、児童精神科の研修にはクリニックが欠かせないと思います。

来年以降、1年に1-2回、この交流会が開かれる予定です。全国の児童精神科クリニックの先生方と医療についてだけでなく、経営、子どもを取り巻く状況、それぞれの工夫、地域ごとの特徴などについても情報交換していく中で、本当に多くのことが学べそうで、期待が膨らむ交流会でした。


2014年10月10日金曜日

日本一自殺率の低い町

自殺率を高める因子(病気、貧困など)はたくさん研究されてきました。それに対して自殺を予防する因子が研究されることは少なかったようです。それを研究されている方の記事を新聞で読みました。和歌山県立医大の岡檀(おか まゆみ)先生です。

自殺を予防する因子を調べたいと考えた岡先生はその日本一自殺率の低い町、徳島県海陽町を訪れて、3300人へのアンケートに加えて、聴き取り調査を現地で行ったそうです。それによると、赤い羽根募金が集まりにくい、老人クラブ加入率が低いなど、他の人と足並みを合わせるのではなく、いろんな人がいたほうがいいという気質が浮かび上がってきたそうです。また、海陽町では昔から「病、市に出せ」という言葉があるそうです。病とは対人関係のトラブル、事業不振など人生における辛いこと。つまり、やせ我慢はやめて早めに弱音を吐けと勧める意味だそうです。なんかホッとしましたね。

これまで自殺予防には絆や人とのつながりが重要であるといわれてきました。しかし実際に自殺多発地域では緊密な人間関係がゆえに、かえって悩みや弱みを出せずに助けを求める行動ができないことも明らかになったそうです。絆って耳触りのいい言葉ですもんね。岡先生の調査の結果では海陽町では生活面で協力する人は少なく、立ち話やあいさつ程度のあっさりとした関わりを持つ人が大部分だそうです。つまり、ゆるい結びつきが海陽町の特徴だそうです。

患者さんから、社会の中で自分の悩みを打ち明けたら、まわりから何か言われる、批判される、もう大人なのに意気地なしで我慢ができないと思われるということをたくさん聴いてきました。また僕たちは子どもの時から我慢だとか、絆を大切にしなさいという言葉を聞きすぎて、その呪縛から逃れられない部分もあります。

僕は子どもの時に規範、我慢、絆を教えてもらい、それを大人になるにしたがって部分的に緩めていいところを徐々に知っていくことこそ、大人になることではないかと考えています。絆にしても相手によって異なる適切な距離を知ることも大人になること。

大人になりながら、自分なりのさじ加減を知ることができれば、生きやすくなるのではないかと思っています。

2014年10月6日月曜日

こんなことを話す場所がない

僕はこれまで患者さんのお話をただただ聴くことで、喜んでもらえたとき、内心、「僕は何もしてないのに、こんなんでいいのかなあ」と半信半疑でした。

そんなときにある患者さんから「ここで話せるだけで救われるんです」と言われ、はっとしました。患者さんは自分の抱えた問題をいろんなことが気になって、周囲の人に簡単には話せない。そのときに、ただ話を聴くことも大切な治療なのだと気づきました。これはどこの心理療法の本にも書いてあることなのですが、それに僕自身が心から納得できていませんでした。その理由は自分が治療として、患者さんに何かを施さないといけないという僕自身の固定観念でした。患者さんが治るのを手伝うというスタンスでいいのではと思っていながら。。。

ただ話をお聴きすることも大切な治療。これをまた自分の治療のひとつとして取り入れていきたいです。

当然ですが、まだまだ自分の考えや治療法はまとまりません。でもそれでいいのかなとも思います。融通無碍。最近はこれが目標な気がしています。


2014年10月1日水曜日

落ち着かず、目を合わせない人に出会った時

僕はこれまで落ち着かず、目を合わさず、返答も少ない患者さんに出会うと、「この人、やりにくいなあ」と思ってきました。それが最近、少し変化を自分の中で感じています。

少し想像してみると、なにか不安を抱えた人が、精神科を受診しようか迷い、クリニックに電話をして予約され、実際にクリニックをたずねて来られ、診察室に入り、はじめて会う精神科医と自分の抱えた問題の話をする。これって、普通に考えて、かなり緊張することですよね。

確かに、たまにはおられます。初対面から打ち解けすぎじゃないかと思うくらいリラックスした口調と態度の大阪のおばちゃん。僕らは何十年も前から友達か!と思わせる人(笑)。でもそんな人は少数派でしょう。

つまり、クリニックを受診するまでに、いくつもの段階を経ているわけです。それを想像すると、診察室の中でうまく振る舞えなくて、当たり前。逆に、そんなに上手に振る舞える人はそれほど状態が悪くないのかもしれない。その初対面の緊張をいかにほぐして、話をしてもらえるようにもっていくのが精神科医の仕事ですよね。さらにはその表情や態度から、状態を想像しないといけないわけです。

今更ながら、こんな当たり前のことを開業して1年経ってようやく気づきました。本当にお恥ずかしい話です。これも日々の臨床の中で、患者さんたちが僕に教えてくれました。患者さんから教えてもらったことを次の患者さんに還元していけたらいいなと思います。


2014年9月26日金曜日

古巣の大阪赤十字病院小児科

小児科時代の先輩にお声掛けいただき、昨日、古巣の大阪赤十字病院で児童精神科について不肖ながら、お話しさせていただきました。

小児科医としての僕の大部分を作ってくれたのは間違いなく大阪赤十字病院です。医者になってからのはじめの2年間の研修医生活はわけがわからないまま過ぎてしまったように感じていました。そんな不安な3年目の僕を先輩方がとりあえず最低限一人で当直ができる小児科医に育ててくださいました。肺炎、腸炎、喘息、ネフローゼ症候群、てんかん、けいれん重積、腸重積、白血病、脳腫瘍、若年性関節リウマチ、川崎病などなど。小児科専門医試験に出てくる疾患をかなりの範囲で勉強させていただきました。

そして、何よりも医者としての姿勢、そして病児を抱えた親御さんの気持ち、子どもの死の瞬間、子どもの回復力のすごさ。

医者になって間もなかった僕にとって、子どもたちについての一番大切なことを教えてもらった気がします。なので、その感謝の念は今も変わりません。

最後に、上の写真は昨日の講演後、日赤の後輩が1年遅れの開業祝ということでプレゼントしてくれました。似てますかね?(笑)

2014年9月23日火曜日

治ってないという自信のなさが患者さんに伝わってしまう

今日も現役の医者がこんなことを書いて大丈夫かなと思いながら綴ります(笑)

最近、ある勉強会で以前勤務していた病院の上司にお会いして、患者さんの治療について僕が疑問に思うことを相談していました。そのときに僕がなかなか治らない患者さんに対して申し訳ないという気持ちが出てきて、それを少し出してしまうということをお話したんです。すると、その上司は「先生、自分の自信のなさは患者さんに伝わってしまうよ」と諭されたんです。

まさにそうだなと思いました。診療をしていて、治療が本当に難しいなと感じる患者さんに出会います。続けて通院してもらうことが申し訳なくなってしまいます。でも考えてみると、その患者さんは何か少しでも良くしてもらいたくて、来てくれているのに、自信のなさが少しでも伝わってしまうと患者さんは不安になる。これはいけないなと思いました。

いくら自信がなくても、そんなことを出してはいけない。時にはやせ我慢も必要。いつかよくなると治療する側が信じて、治療に臨んでいく姿勢を改めて考えさせられました。

2014年9月20日土曜日

話そうか迷ってようやく話をしてくれる時

「こんな話をここでしていいのか、迷ってたんです」

患者さんは家族や近い人にも話せないようなことを勇気を出して、話してくれる時があります。こんなことを話して、変な人だと思われたらどうしよう、馬鹿にされるんじゃないか、ひかれてしまうんじゃないか。その方の内心を想像すると、ご本人としては相当の覚悟を持ってこられたのだなと感じます。

僕がこのときいつも思うのは、

・どんな話をされても決して馬鹿になんかしない、変になんて思わない
・迷って迷ってようやく話すような内容は多くの場合、実はそれほど逸脱した内容ではない
・世間の常識なんてどうでもよくて、その人にとっては大変なことなんだから僕たちができることはしたい

簡単に言えば、「なーんにも変じゃないですよ」と伝えたいです。

人にはみんなそれぞれの事情や物語があります。その人の人生を生きない限り、その人の気持ちを本当の意味で理解する事は出来ません。でも迷った末に話をしてくれるなら、できることをしたい。それは医者というよりも一人の人としてわいてくる感情ではないかと思うのです。

「僕たちは同じ人なんですから。お互いそんな気持ちでお話しましょ」そんなメッセージを患者さんに伝えられたらといつも思います。

2014年9月16日火曜日

青木省三先生のご講演をお聴きしました

先週土曜日、神戸で講演させていただく機会がありました。そこで、僕は前座、そのあとのメインの講演で僕の尊敬する川崎医大精神科教授の青木省三先生のご講演をお聴きしました。

僕が精神科医になったばかりのころに青木先生のご講演、ご著書に感動して、無理をお願いして岡山にある川崎医大病院で青木先生の外来を見学させていただいたことがありました。それから何年も過ぎているはずなのに、青木先生は僕のことを覚えておられ、しかもその青木先生の前座を務めさせていただきました。本当に光栄でした。

ご講演の中で治療しているという「治療感」、援助しているという「援助感」は違うというお話がありました。健康な人が病気の治療をしているという治療感、障害がない人が障害者を援助しているという援助感。そうではなく、病気や障害の程度が軽い人が重い人を援助しているという感覚が大切である。誰しも何らかの病気や障害を持っている可能性がある。

青木先生のお考えの深さを改めて感じました。治療や援助をしているという僕たちが病気や障害じゃないということ自体がおかしな考えであり、治療していると思っている僕たち自身も病気や障害を持っている可能性があるのだということです。人はみんなそれほど大きな差はなく、同じ土俵で生きている。

2014年9月11日木曜日

自分の人生は誰も代わって生きてくれない

親しい人に大変な出来事があると、その人のために何かできることはないかなと思います。そしてそれを掘り続けていくと、その人に対してできることの少なさ、自分のふがいなさを思って、自分まで一緒にしんどくなったりします。つまり、その人の代わりはできません。

一方で自分がすごく辛くなった時はも同様です。その苦しみを誰かが変わりに持ってくれるわけでもありません。一人でそれを胸に抱いて生きるわけです。

こんなとき、自分の人生は誰も代わって生きてくれないんだと強く思います。結局はその人、自分が立ち上がって生きていくしかない。本当に苦しいことは誰も変わりができません(本当にうれしいこともですね)。

でもこれは決して後ろ向きな考えではなく、開き直って、周りにばかり気を遣わず、自分がしたいことを真剣に探して、あとで後悔しないように、一生懸命生きることが何よりも大切なのだと感じます。


2014年9月8日月曜日

発達障害の告知について

病気の告知をするということを医者になってずっとしてきました。小児科では白血病などの悪性腫瘍、心臓や腎臓の疾患、てんかん、神経が傷害されていく疾患、精神科では統合失調症、うつ病、認知症、発達障害など。関わった患者さんの数だけ、重い病気のお話をする機会に遭遇します。

今の僕は発達障害の告知をすることが一番多いかもしれません。発達障害という疾患の特性上、生まれた時から、死ぬまで一生影響を受ける内容です。

ただ、告知という面では他の人生を左右するような疾患とそう大きく違いはないのではないかと考えています。つまり、いずれご本人には伝えなければならないということ。異論は多いかもしれませんが、僕は疾患について本人が知らないというのは周囲の人の自己満足というか、無意味なことと考えています(もちろんその病名を知ることがご本人にとって幸せなのかの判断はご本人しかできませんが)。

「本人の前では発達障害という言葉は使わないでください」

時々ですが、親御さんから言われます。

では発達障害という言葉を使わずして、診療をするというのは実際に可能なのかを考えてきました。その言葉に触れずに、本人が困っていることを解決していく。それはおそらく不可能でしょう。

発達障害についての理解が大切だということは昨今、本当によくいわれていることです。本人も周囲もそれを理解して、どう付き合い、どう向き合い、どう対処していくのかを一緒に考える。発達障害を根本的に治してくれる治療法がない限り、現時点でこれ以上に大切な治療法はおそらくないでしょう。

告知の時期や方法という問題はありますが、僕は発達障害については診断がはっきりするならば、就学前、小学校、中学校と年齢に合わせて、やりにくさ、病名などを伝えて、一緒に生きやすくなる方法を探していこうという態度が大切だと考えています。その方がご本人も家族も前向きに生きている気がするんです。

2014年9月5日金曜日

小さな感動をしてもらいたい

昨日、MKタクシーに乗りました。京都に始まったサービスで有名なタクシー会社ですね。最近では接客好感度で東京ディズニーランド、ANAについで3位になっていました。

乗車した瞬間に運転手さんは自己紹介をされ、「~です。よろしくお願いします」と言われました。
その第一印象から丁寧な運転手さんだなとまず感じました。

そして降りるときには会計が済むと、運転席に座っていた運転手さんが助手席にひょいっと移動して、助手席側から外に出て、自らの手で僕のいる後部座席のドアを開けてくれたんです。普通は運転席からの操作で開きますよね。それをわざわざ自分が降りて、開けてくれたことに僕はいたく感動しました。

医療も接客業です。結局、感動させたもん勝ちだと思うんです。「あっ、ここは他と違うな」と思ってもらえるよう日々技術やサービスを刷新する必要があるわけです。同じくらいおいしいお鮨屋さんがあるとして、料金も同じ1万円。それなら大将の感じのいいお店、おかみさんが細かな心遣いのあるお店に行くでしょう。

クリニックに入った瞬間から出るまでの間に1回でも小さな感動をしてもらえれば、その日の治療は成功だとしてもいいくらいだと思っています。そんな小さな感動を当院のスタッフみんなでお届けできたらいいなと思います。

2014年9月1日月曜日

クリニックのどこかで癒されますように



僕はクリニックの内装やデザインをお願いするときに、それらを通して、患者さんが少しでも癒されないかなと思っていました。僕自身がお客さんとして、旅したときのホテルや旅館、レストランのトイレにある石、料亭の床の間にある一輪の花。そんなさりげないところに癒されて、「ここに来てよかったなあ」と自分が感じた事を思い出していていました。

自分が生きている中で本当にしんどくなって、もし精神科のクリニックを受診したとしたら、どんな場所なら自分はホッとするのかなと想像しました。

当院のスタッフが晩夏のひまわりを買ってきてくれました。このひまわりを見た時に、僕自身がほっとしました。その一瞬呼吸ができる。人は疲れた時は息がしたくなる。水におぼれながらも、ほんの一瞬息ができたら、また少し生きられる。そんなときに出会えるものをクリニックにそっと置いておきたいです。

2014年8月27日水曜日

物事がうまくいくのは自分の努力というよりも運がいいから

落語家の立川談春さんが30周年の節目にドラマの仕事をもらったそうです。それに対して「自分は本当に運に恵まれた男です。その運は努力してつかんだもんじゃないですね。与えられた幸運の量だけこれからがんばらなくちゃと思えるようになりました。これは僕の中ではとてつもない成長だし、変化だし、僕の30年の自意識の変革ですね」と。

なにか物事がうまくいったときに、人は自分の努力のことをどうしてもその理由にしたくなる。もちろん努力をするからいい結果が生まれるわけです。というか、生きる上で努力するのは当たり前。

「努力すれば必ず成功するとは限らないが、成功した人は必ず努力している」

僕はこの言葉が好きです。

しかし、いい結果が出た時に、努力の部分は小さくて、本当は幸運による部分がほとんどなのではないかと僕自身は思ってきました。今までの短い自分の人生を振り返っても、ここは自分の努力だなと思えるところはほとんどありません。それは歳を重ねれば重ねるほど、自分の運の強さのなせる業なのだと感じます。

なぜ自分がそう思うのかを自分なりに考えてみました。すると、なにか物事がうまくいく時は本当に多くの要素、つまり健康、タイミング、周囲の人の助けなど、自分の努力以外の要素のほう圧倒的にが大きい。たとえば、僕が今職業を持てていること、仕事を続けられていること、健康でいられることなど、さっきお話した健康、タイミング、周囲の人の助けによります。これらに目を向けると、自分がしてきた努力は必然的にあまりに小さく見えます。

健康+タイミング+出会い>自分の努力

これが真実なのではないかと考えています。そう考えると、今生きていられることに感謝せざるをえない。それが自然な考え方なのかなと勝手に思っています(笑)

2014年8月24日日曜日

自閉症の子の声が聞こえたら

先日のNHKで「君が僕の息子について教えてくれたこと」をご覧になった方も多かったでしょう。

13歳の自閉症の少年、東田直樹さんが自分のことについてエッセイ、「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」を書きました(東田さんのように言葉をうまく話せない自閉症でありながら、活字でそれを表現できる方は極めてまれです)。それから月日が過ぎて、自閉症の息子を持つアイルランドの作家デヴィッド・ミッチェルさんがこの日本語のエッセイを見つけ、それを英語に翻訳したのです。

このドキュメンタリーの中で特に印象的だったものがありました。東田さんがニューヨークでの講演の中で自閉症の子を持つ親に向けた言葉です。

「僕が幸せだと思う瞬間は家族のささやかな日常の幸せそうな姿を見た時です。子どもの前で泣かないでください。子どもが一番望んでいることは自分を受け止めてくれる場所と親の笑顔です」

ここは本当に涙なしでは見れませんでした。

自閉症の子たちは会話ができず、かんしゃくを起こし、周囲から見れば不可解な行動をとります。でもそれは表現できていないだけです。実際は周囲の状況をよくわかっていますし、親の気持ちも感じています。その意味で、東田さんのように自閉症の人として感じていることを活字にして表現できたことは本当に画期的なことです。もしかしたら自閉症のこどもがしている行動、考えていることを理解することができるかもしれない。

自閉症の子たちの行動には必ず意味がある。

僕はこの言葉が好きですし、信じています。新しい環境に緊張しているのか、人の視線や音を怖がっているのか、なにか伝えたいことがあるのかもしれない。

日々の臨床でもっと勉強して、いつの日か自閉症の子たちの声を聴けるようになりたいです。


2014年8月20日水曜日

真剣に子どもに向き合う方の診察をしたい

勤務医をしているときよりも、開業してからのほうが圧倒的に多くの患者さんにお会いします。その中で子どもたちへの躾の重要性をより強く感じるようになり、親御さんたちに何度も躾の必要性をお話してきました。しかし、いつまでたってもよくならない子どもたちがいました。その理由は診察のときにお話したこと実践してくれていない。実践しない理由をたずねると、「この子がかわいそうで」。

そして多くの方はこちらが対応の仕方のお話をしている最中から、「学校では他の子を叩くんです」みたいに、次々と質問をされる。僕がこのときに思うのは、それまでの親御さんの対処法とは180度違うお話をしているのに、その話を聴いて咀嚼する前から次の質問をされる。それはただ単に困ってることを話するだけで満足しているように見えます。このような方には大変申し訳ないですが、他のところで相談していただくしかありません。

僕は最近、当院に来られたお母さん、お父さんはこの子に対して将来を見据えて、どの程度真剣に向き合っていく覚悟があるのかを見るようになりました。

そして躾が根本的な問題だと感じた時に僕が見るポイントは3点です。

・お子さんに普段から十分な愛情を注いでいるか
・善悪の区別をきっちり伝えているか
・その子が大人になった時のことを想像しながら接しているか

このうち、どれかが足りないと感じた時に、その部分をお話をします。

一方で、健常の子、自閉症の子に関わらず、問題行動がよくなられる方がいます。その親御さんたちに共通するのは子どもの将来を本気で心配して悩んでこられたこと。悩んで悩んで悩みきったあとに、とにかく何とかしたいという気概を持たれてる親御さんは診察でお話したことをお家で実践してくれます。そうすると、すべてとは言いませんが、子どもの問題行動が減る。親の指示が入るようになる。その時、僕も本当に満たされた気持ちになります。

限られた時間ではあるけれど、真剣に子どもに向き合う方の診察をしたい。その方に僕も全身全霊でエネルギーを注ぎたいのです。


2014年8月18日月曜日

生後10か月からの知恵比べ

食べたくないものが出てきたとき、したくないことをさせられているとき、自分がしたいことができないときに泣いてみる。

子育てをしていると、子どもが大人を試している場面にたくさん出会います。僕が25歳のとき、初めての子どもとして長女を見ているとき、子どもというのはいつくらいから善悪を伝えれば理解できるのか、いつなら叱って意味が分かるのだろうかと時期をうかがっていました。そして、それから4人の子どもを育てながら、言葉や態度で示して理解できているなと共通して感じたのは生後10か月のときでした。つまり言葉を話す前、歩く前です。座って離乳食を食べさせながら、自分が好きでない食べ物を口に入れようとすると、口を閉じたり、顔をそむけたりします。そして、僕が怖い顔をしながら、無理やりでも食べさせようとすると結局は食べます。つまり、ここから親と子どもの知恵比べ、もっと言うなら覇権争いが始まっているわけです。

「まだ子供だからわからないんだよ」

よく聞く言葉です。確かに、複雑な内容を子どもが理解するには時間がかかることはあるでしょう。しかし、親の言うことをきく子どもに育てられるかは生後10か月から始まっています。親の言うことをきかせる理由は善悪の区別を伝えるためです。別に親が偉そうにしたいからではありません。

中学生になって、「この子は反抗期だから、言うことを聞かないんです」というお話をよくよくお聞きします。でもそれは違う。親の言うことを聞かせるためにはそれまでに親が子どもにどんな態度で接し、どのように観察してきたかにかかっています。反抗期という単語を言い訳にしてはいけません。反抗期といわれる思春期ほど、不遜な態度で接してくるわが子に対して善悪の区別がしっかり伝えられるかが試される時期です。

生後10か月。このあたりから親と子の知恵比べが始まってると思って、子育てに臨んでみてください。


2014年8月14日木曜日

自分が持っているものをすべて出す

NHKスイッチインタビューで日本画家の千住博さんが出られていました。

千住さんは「誰に向かって絵を描いているんですか」の質問に

自分に向かってです。僕は誰とも変わらない普通の人間。だから僕がいいと思ったら多くの人がいいと思ってくれるはず。自分が見る人の代表として見ている。その自分を欺いたら多くの人を欺くことになる。誰かのためにじゃなくて、本当に自分がそれでいいのかと考えている。

よく言う言葉ですが、他の誰よりも自分が一番自分に厳しい。

僕も診察のときはその限られた時間の中で、自分が納得する診療をします。

確かに、あの時あーすればよかったというのはあります。ただ、その瞬間は自分の全知全能を傾けて、その人に対して自分は何ができるのかを考える。自分を欺きたくない。誰のためでもなく、自分のため。自分が後悔したくないから。精神科では人が死ぬことがあります。最悪なのは自殺です。目の前の患者さんが帰り道で車に飛び込むこともある。その人が自殺したとしても、あの診察の瞬間、僕は全力で診療したというのがないと、自分が後悔する。誰のためでもない、自分のためです。


2014年8月10日日曜日

悩みを抱えた人の気持ちをほぐす

最近、僕が大好き人で、勝手に大ファンになっている元週刊プレイボーイの編集長の島地勝彦さんがいます。御年73歳。シングルモルト(僕もシングルモルトが大好きなんです)とシガーをこよなく愛する方です。島地さんは雑誌の中で人生相談を受けておられます。

島地さんの本の中にこんな一文がありました。

相談者にしてみれば深刻な悩みでしょうが、回答者も一緒に深刻になって「うーん」と唸ってしまっても仕方ない。自分が大真面目にああだこうだと現実的な回答をしてもそんな答えはとっくに相談者だって考えていて、それでも悩みが晴れないからわざわざ相談しているんでしょう。だとしたら、笑ってもらうことで相談者は「ああ、そんなに深刻にならなくてもいいんだ」と肩の力が抜ける。人生は深刻になっていいことなんてもにもありません。結局のところ人生に正解なんてない。私の回答だって唯一の正解であろうはずがありません。だとしたら、せめて相談者の気持ちをほぐせればいい。

なんでしょうか、この名言の連続は。

僕のところには人生で起こるどうしようもない悩みを抱えた方が、ご自身でどうしていいのかわからずに30代の若造に相談に来られます。その時、僕ができることはただただお話をお聴きして、一緒にその気持ちの逃げ道を探すこと、病気なのかどうかの判断をすること、病気としての治療をすることだと考えていました。そのためには現実的な回答をくそまじめに考えてきました。もちろん、これが間違っているとは思いませんが、それをしてうまくいく確率はやはり低い。誰でも思いつくような回答しかできていなかったと思います。

悩みを抱えた人の気持ちをほぐす。

うすうすは感じていましたが、こんな大切なことをちゃんと認識できていなかったのです。世の中にお笑いを生業にする人たちがたくさんいるのは辛いときに笑うことが救いになることを知っているからでしょう。もちろん、人の気持ちをほぐすことはそれほど容易ではない。しかし、これからは人の気持ちをほぐすこと、笑っていただくことを意識して、診療に臨みたいです。

2014年8月7日木曜日

開業して1年が経ちました

1年前の2013年8月6日、宋こどものこころ醫院を開院しました。

あの暑いはずの日に、緊張で暑さを感じる暇もありませんでした。開院初日から完全予約制をとっていましたが、本当に患者さんは来てくれるのか、そんな不安を抱えて開業の日を迎えました。これはクリニックだからではなく、自営業でお店を始める人ならみんなが経験する緊張感なのでしょう。

僕個人で言えば、勤務医というサラリーマンをやめ、自分でお店というクリニックをかまえる。そして30代半ばで僕には直接的な上司というものはいなくなりました。つまり職場で僕のことを叱る人はいなくなりました。この1年間はがむしゃらでやってきて、あまり記憶に残っていないというのが正直な今の感想です。

宋こどものこころ醫院の2年目を迎えるにあたっての僕の今の気持ちを述べさせてください。

まずは何よりも、この1年間を支えてくれたわがスタッフに感謝と敬意をお伝えしたいです。当院のスタッフは僕が言うのもなんですが、本当に優秀なスタッフです。人柄、言葉づかい、気遣い、学ぶという姿勢、問題が生じた時に自分から解決しようとする姿勢。そして何よりも、僕が一番大切にしたいと開院当初からずっと話し続けてきた「患者さんに丁寧に接する」ということを本当に実践してくれています。僕がこれを強調した理由はこんな当たり前のことができていない医療機関を僕はたくさん見てきたからです。その僕の気持ちを実践してくれているスタッフに心から感謝したいです。

そしてこの1年の間に来ていただいた患者さん。宋こどものこころ醫院に頼りたいと思ってくださる患者さんには当然ですが、これまで以上の診療、サービスを提供できるよう努力していく所存です。

2年目の宋こどものこころ醫院は心理士のカウンセリングをお勧めしていきたいと考えています。どうしても、短い診察時間の中では聴ききれない部分があり、それを患者さんに話してもらうことも治療、それをミーティングで僕が聞いておき、診察時間内に診療に生かす。この流れが大切であることをこの1年を通して学びました。

最後に、今来ていただいている患者さんにお願いです。当院には当然、改善点がたくさんあります。なのでクリニックに来られたら、遠慮せず忌憚のないご意見をいただきたい(クリニックにあるノートのご記載いただいても大丈夫です)。それをすぐに実践できるかどうかは別として、まずはそれを知りたいというのが本音です。そしてできる限りの改善をしていきたいです。患者さんのニーズを知らずして、クリニックがよくなることはないと僕は考えています。

2年目の宋こどものこころ醫院もどうぞよろしくお願いいたします。

2014年8月5日火曜日

家庭の環境がよくないということ

林真理子さんの本を読んでいて、曽野綾子さんのエッセイのことが書いてありました。

こんな一文でした。

「私が幼いころから、両親はとても仲が悪かった。しかし仲が悪い親を持つ子供にも、いいことはいくらでもある。それは早いうちに人生の深さを知ることができることだ。」

この文章から林真理子さんは自分自身も両親がいつも不仲で、そのおかげで、今自分は物書きになれたのだと、目から鱗だったそうです。

幼いころの環境が悪かった、自分は親として子どもにいい環境を提供できていないなど、本当によくお聴きします。「この子にはかわいそうな思いをさせたから」と涙されます。もちろん、それは親心として当然ありだと思います。ただ、それも悪い面ばかりではないということは僕自身もうすうす感じていました。温かい家庭、安定した生活を悪いと言っているのではありません。もちろん、それは理想であり、それがきっといい部分が多いでしょう。でも環境が悪いことが必ずしも、その子のためにならないとはかぎらない。むしろ、人の顔色を見る、人との接し方を知る、自分の身の守り方を知る、社会の厳しさを知るなど、いい面もたくさんあります。

僕がここで言いたいのは、以前のブログでも書いたように、子どもに対していい環境が提供できていないことで、親として自分を責めすぎないでほしいということです。いい面も必ずあるということを知っていただければ、これもまた明日からの子育てに向けて力になるのはないかと思っています。

2014年7月31日木曜日

プロスポーツ選手の多くはうつ状態

昨日の新聞に「プロのスポーツ選手はある程度のうつ状態にある人が大多数」とありました。

ファンのやじ、中傷、メディアの評価が突き刺さり、心がえぐられる。言葉の暴力にさらされるため公の場に出なくなる。常に仕事ぶりが衆人に環視され、あれこれと語られ、プレーの採点が新聞、雑誌に掲載されて、評価が世に広く伝えられる。そこまで身が丸裸にされている職業はほかにない。

たしかに。。。

華やかな世界にいるように見える分、影の部分がものすごく深く大きなものなのだと感じました。うつ状態にならないほうがおかしいと感じるくらい。技術の面でのしのぎを削る、レギュラーになることすら至難の業なのに、公なストレスまであり、本当に大変な職業なのだろうと思います。僕がそんな職業なら、頭がおかしくなってしまいそうです。。。そこで戦っているスポーツ選手の方を尊敬します。

僕の場合、メディアには評価されませんが、患者さんやご家族がしてくれます。信頼や信用を積み重ねない限り、患者さんは来てくれない。僕に治す実力がなければ、患者さんは離れていくだけです。すごくわかりやすい。

楽な仕事なんてどこにもありませんが、プロスポーツ選手と自分の仕事を比較してみて、自分の仕事をもっとシビアに見ていくことも大切だと思いました。

2014年7月28日月曜日

ブログを読んでいただいてる皆様へ

いつも僕の稚拙な文章を読んでいただき、本当にありがとうございます。僕のブログはコメントを書けない状態にしておりますので、皆様の反応を僕は感じることができません。ただビューの数を見ること、直接お会いした方に感想をいただくのみです。直接お会いして、お褒めを言葉をいただくことは僕にとって本当に力になり、ありがたい限りです。

ところで、僕がブログを書く理由はいくつかあります。

1つ目に自分の考えを文章にしてまとめていきたい、考えを整理しておきたい

2つ目に読んでいただける方に元気になってもらい、それで僕も一緒に元気になりたい

3つ目に当院を受診していただく前に読んでいただければ、僕がどんな思いで診療しているのかをご理解いただいた方に受診してもらえるのではないかという期待

つまり、そんな崇高で高邁な精神はなく、所詮、僕自身のためです(笑)。もっと言うなら、僕自身があまりにたいしたことがない人間なので、きれいな言葉を並べる方々は好きではありません。それ、ほんとに心から思ってるの?と言いたくなります(笑)

閑話休題。

特に3つ目の部分なのですが、たくさんの人に読んでほしいという願いは当然あります。ただ、僕は正直なところ、わかる方だけにわかってもらえれば、それでいいと感じています。日々の診療の中で、僕の手に余る姿勢で受診に来られる方がおられます。いわゆる「丸投げ」の姿勢の方です。そうなると、僕は当然継続的な診療を希望されるなら、一緒に努力していただくことをお願いするしかありません。それに同意いただけない場合には他院への受診をお勧めします。

ブログを読んでいただく方への想いとブログについての僕の考えを今日は書きました。

お暇なときに思い出して、読んでいただければうれしいです。今後ともよろしくお願いいたします。

2014年7月24日木曜日

本人に聞いているのに、答える親御さん

診察の中で子どもさんに質問しているのに、それに答えてしまう親御さんに本当にたくさんお会いします(僕は子どもさん本人を直視して聞いています(笑))。

なぜそうなるのか。僕なりに考えてみました。

その時の体裁を整えたい、ちゃんと正確に伝えとかないといけない、子どもはわかってないから、などいろいろ推測はできます。おそらく、これは診察場面だけではなく、外で他人の大人に会った時には同じ行動をされていると推測できます。

ただ、これをしていくと、どうなるのでしょうか。大人に対して話のできない子、さらには一人では話をできない人になってしまいます。そんな大人にもよくお会いする気がします。あいさつのできない大人、人と話のできない大人。。。

診察は人と対話する一つのチャンスです。その時に話を本人にさせることは治療の一貫と考えています。たとえ発達障害の患者さんであっても、できるだけ本人と話をすることを僕は心掛けています。

一方で、診察の時に本人が話そうとするのを待たれる親御さんにも出会います。その時、内心ほっとするというのが本音です。その子供が自分でなんとかしようとするのを待つ姿勢がある親御さんなのだと考えるわけです。

診察の中で、本人が間違ったことを話しても、それも診察の一貫ですし、あとで親御さんに事実関係を確認します。つまり、本人なりに考えて、ものを言うという動作を見せてもらうわけです。

そして最終的に、一人で生きることのできる大人になってもらうこと。これが当院の目標です。

2014年7月21日月曜日

力を入れずに治療ができたら

先日の新聞に落語家として3人目の人間国宝に柳家子三治さんがなられたことが書かれていました。

面白いことを、ことさら面白くするにはどうしたらいいかという質問に「面白そうにやらないことですよ」と。今のお笑い番組の笑いを強要するような風潮とは対極だそうです。全力で笑ってもらおうと必死になる。それはお笑いを生業にする人にとってすごく大切なことだと思います。僕も患者さんに少しでもよくなってもらおうとわかりやすく必死になる。それは今は大切なことであると信じています。でもいつまでもそれをするのは違う気がします。合気道の師範が格闘家に勝てるように。力で何とかしようとしているうちは本物じゃない。

力を入れずに、ゆったりと構えて患者さんの本質にだけにさらっと触れて、治療ができるようになることが僕の目標です。

2014年7月19日土曜日

自分のせいで子どもたちにさびしい思いをさせたと思う方へ

自分が病気をして入院する、単身赴任で一緒にいられない、夫婦の問題で離婚するなど、人は生きていく中で、自分の力ではどうしようもないことで、自分の子どもにさびしい思いをさせることがあります。

そんなときの親である自分はどんな気持ちになりますか?子どものことを思うたびに申し訳ない気持ちが湧いてきて、顔を見ると好きなものを買ってあげて、どこか喜ぶところに連れて行ってあげたくなる。自分が子どもたちに言った言葉、してしまった行動について深く後悔もするでしょう。
子どもたちに対する懺悔です。

当然ですが、親も人間です。子どもたちに申し訳ない気持ちになって、自分自身が嫌になる。それでうつ病になってしまう方にもお会いします。確かに懺悔することは大切です。でもそれを続けたところで子どもも自分も楽になれるわけではない。

その時、僕は治療者として、どんな言葉が適切かはわかりませんが、子どもたちにとってさびしい思いをしたというこの苦労もいつの日か何らかの形で生きる糧にしてもらえたらと思います。人生に起こることは誰かのせいにできることもあれば、誰かのせいにできないこともある。たとえそれが誰かのせいであったとしても、その人のことをある一定期間は憎んでもいいけど、それ以降はそれをやめる練習をしていく。そんな風に考えることも一つなのではないかと思うのです。

何もわからない僕ながら、一つの考えを示してみました。


2014年7月15日火曜日

認知行動療法をしてください

「認知行動療法をしてください」、「パキシルを出してください」、「葛根湯を出してください」

初診の患者さんから言われる言葉です。この3つの共通点は何でしょうか?つまりは治療法をご自分で指定してこられる方。簡単に言えば、診断も治療もすでにご自身やご家族でネットや本でお済みになられてる方です。

お家を立てるときに、家の建物としての安全性が脅かされるのに、ここには釘を打たないでとか、水回りは絶対ここでみたいなことを望む人はどれくらいいるでしょうか?

患者さんが言われる治療法で効果が出る場合も確かにあると思います。でも僕の経験の中では治療法を指定される方で、よくなられる方はほとんどいませんでした(まあ、実際には診断や状態がその患者さんの思っているものと違うため、その治療自体をお断することも多いですが)。

ここで大切なのは柔軟な思考を持たれているかだと思います。どんな病気についてもそうですが、あまりに頑なな方は治りにくい。素直に治療に臨まれる方は治りやすい。

この時に僕たちができることは患者さんに「どこを目指してますか?」というお話です。何を望まれているのかを確認します。そうすると、当たり前ですが、治りたい、症状をよくしたいということになります。それなら、こちらの治療法の方がお勧めですよとお話をします(それでもご理解いただけない方もおられますが)。

患者さんと医療者が常に治療を通して、何を目指しているのかをすり合わせておくことは本当に大切だと思っています。見ている方向さえ、違っていなければ、多少の問題が起きた時もまた立て直しができるからです。みなさんも受診の際には医療者と目指しているところが一致しているかを確認しながら、受診してみてくださいね。

2014年7月10日木曜日

お客さんは買いたい物を買うわけではなく、買いたい人から物を買う

みなさんは自分がよくわからない、門外漢だなと思うものはどのようにして買いますか?

たとえば、生命保険、車、家など。。。

素人がこれらについて詳しいということはあまりないでしょう。しかもそのためにすごく勉強するかというと、そんな人も少ないと思います。当たり前ですが、そのためにプロがいるわけです。

そうなると、どこの誰から物を買うでしょうか。そしてそれをどこで判断するのでしょうか。

それはその「人」でしょう。その「人」を信頼しているから買おうと思う。もっと言えば、そのものがほしいからというよりも、その人が好きだから、信頼できるから、その人の言うものなら間違いないだろうという気持ちでお金を払うはずです。

僕はこれを営業をしている人からのお話、本などから学びました。そうすると、自分の仕事でも同じだなと気づきました。はっきり言って得体のしれない、目に見えない心の問題を誰から治療を受けたいか。それは自分が信頼できる人からでしょう。そんなことを想像しながら、今日も診療に向き合いたいと思います。

2014年7月4日金曜日

人生は冥土までの暇つぶし

今日は僕の大好きな言葉を紹介したいと思います。

一つ目は

「人生は冥土までの暇つぶし」

あまりに有名な言葉なので、ご存知の方もおられるかもしれません。僧侶であり、小説家であり、政治家でもあった今東光大僧正の言葉です。正確には今東光さんは「人生とは何ですか?」の質問に、「人生は冥土までの暇つぶしや。だからこそ、上等な暇つぶしをせなあかん」と話されたそうです。

二つ目は

「人生は恐ろしい冗談の連続」

これは集英社で編集長、取締役をされていた島地勝彦さんの言葉です。島地さんは編集者時代に柴田錬三郎、今東光、開高健などの担当編集者を務めた方です。ローマ人の物語を書かれた塩野七生さんまでもが自分の作品ができたら島地さんに読んでもらうと本で読んだことがあります。

この2つの言葉は人生が何たるかをまだまだわかっていない僕をも救ってくれました。人生はどうせしんどいことばかりです。その中に、ほんの少しうれしいことがある。どこかほっとするというか、ああ、人生ってそう考えればいいのかと思わせてくれます。毎日が緊張の連続で肩ひじを張って生きている。この言葉を思い浮かべると、肩の力を抜いて生きれる気がします。

みなさんにとってもこのような言葉が生きていく上でお役にたてればと思いました。生きていく上で自分を慰める言葉の存在は大きいです。みなさんもそんな言葉を見つけてくださいね。


2014年7月2日水曜日

ほとんどの人は健康と病気の間にいる

大昔に買った遠藤周作さんのエッセイを見つけたので読みました。

その中に「二分法はやめて三分法で生きましょう」とありました。

二分法とは幸福と不幸、健康と病気、善と悪というようにこの人生のすべてを対立した二つに分けて考える思考方法です。この考え方は僕たちが子どものころから教育、習慣として叩き込まれて、当然だと思い込んでいる思考方法でしょう。

黒に対して白、金持ちに対して貧乏、悦びに対して悲しみ、健康に対して病気。

でも少し考えればすぐにわかることですが、僕たちが生きる人生はすべてを2つに分けて考えられるほど単純なものではない。多くの人はすごく幸福かと言われれば、そこまでではないけど、不幸かと言われればそれもなんか違うと感じるのではないでしょうか。悦びと悲しみの間の感情もあります。慢性の病気を抱えて、元気に生きる人もいる。良いとも悪いとも言えないこともあります。その間にある状態を第3の状態と考える。それを三分法と言います。つまりグレーゾーンがあるということでしょう。

ちょっと話がずれるかもしれませんが、多くの人はお金、地位、外見、健康がそれほどあるわけじゃないけど、なくもないというところではないでしょうか。あまりにお金があると、その使い方、その管理に辛くなる。あまりに容姿がきれいだと変な人に付きまとわれる。あまりに地位があると週刊誌に狙われる(笑)。そうすると、特別に何があるわけではないけど、中間くらいにいるほうが気楽に暮らせる。つまり満たされすぎずに、暮らすことが結局はいいということでしょう。

この考え方は病気を持ちながらも、完全な健康を得ようとはせずに病気のままだけど生きようとすることもこれに通じる気がします。逆に言えば、世の中に完全に健康な人などいるのでしょうか。さらに言えば、人は皆、境界の不明瞭なグレーゾーンに生きている。普通に生きるとはグレーゾーンに生きることなのでしょう。

物事の中間を許す、この三分法の考え方、いいなあと思います。



2014年6月25日水曜日

悲しみに暮れる人の心には悲しみのメロディーが流れている

去年の年末の情熱大陸で指揮者の佐渡裕さんを見ました。

今や世界的な指揮者である佐渡さんでも、世界中のオーケストラから呼ばれて、そのオーケストラからA,B,Cの評価を受けて「ぜひまた来てほしい」、「まあまあだった」、「二度と来てほしくない」とコメントを書かれるそうです。指揮するためにその国を訪問し、そのときに用意されている宿泊するホテルもそのオーケストラからの評価に従ってランクが違ってくる。「二度と来てほしくない」と書かれると、そのオーケストラに呼ばれることはほんとに二度とないそうです。つまり、今は良くても次があるとは限らない。「常にオーディションを受けているようなものです。60歳を超えて保障された老後を過ごせるなんて考えていない」と話されていました。睡眠薬を常に携帯して移動されている様子もありました。

この佐渡裕さんの厳しい生き方に感銘を受けたので、いつものように佐渡裕さんの本を買って読みました。

その中でこんな言葉がありました。

愛する人を失ったときに人は「私は悲しい」とは言わない。悲しみに暮れる人に言葉は無意味である。その人の心の中には言葉が存在しているのではなく、悲しみのメロディーが流れているからである。

この言葉をすべて肯定するわけではありませんが、これは衝撃でした。僕は日常的に患者さんのとんでもなく悲しい話をお聴きします。そのときに僕はただただ話を聴くだけで、何もできず無力感を感じ、たしかにどんな言葉をかけても意味がないように感じてきました。僕が精神科の治療の中で使う言葉は一番大きな存在ですが、それではどうしようもない時があります。そんな時、もし患者さんの心に流れるメロディーを感じることができれば、何らかの方法でその人の悲しみを少しでも癒すことができるのではないか。そんなことを夢想しています。

2014年6月20日金曜日

大人のADHDについて

児童精神科・心療内科とかかげている僕のクリニックでも、大人のADHDを心配されて受診される方々がどんどん増えてきています。

先日、大人のADHDについて講演する機会をいただきました。その講演の準備をするにあたり、これまで自分が出会って来た患者さんのこと、勉強してきたことをまとめる大きな契機になりました。

物を忘れたり、気が散って仕事に集中ができなかったり。。。

これって、だれでもある程度はあることですよね。でもその中で、どう診断していくのか。実際に医療機関を受診してくれる大人のADHDの方々はそれまでの長年の人生の中でご本人としては何ともいえないやりにくさを感じて、生きて来られています。僕が診察の中でADHDさを感じるのは

「基本的な能力はしっかりありそうでご本人として一生懸命に仕事や家事をしているのに、それでもうまくいかない人」です。

僕が診察の中でADHDを疑ったときに注意していることは以下の3つです。

1.その症状は幼いころからあるのか
2.具体的に症状を確認していく(表面的に聴くと間違えるので)
3.診断を急がない

1つ目は発達障害全般に言えることですが、ある時突然症状が始まることはありません。子どものころから何らか問題や表面化しなくてもやりにくさはあります。2つ目に不注意でも多動でも衝動性でも、どんな場面でどんな状況でその症状があるのかを確認します。基本的に場面が変わっても持続しているはずです。3つ目にこちら側の問題ですが、診断を焦らないことです。患者さんはすぐに診断してほしいという方も多い。その時にこちら側もつられて診断を焦ると表面的なことろだけをみて、間違いのもとです。どの疾患も同じですが、診断はその人の人生において重いものですから、軽はずみなことはしたくありません。なので、僕はいくらADHDの可能性が高いだろうと思っても、確定診断するまでには診察や検査で4-5回くらいは診させていただいてます。

発達障害の患者さんを診療することは他の精神疾患に比べて、より大きなやりがいがあるのではないかと僕は思います。先天的な問題である発達障害の診療を行うことはその人が生まれてから死ぬまでのその人の人生のストーリー全体を診ること。僕ら医療者ができることはその方々の生き方、過ごし方を横で応援することだと感じています。それがうまくできれば患者さんも医療者もハッピーな人生になれそうなので・・・。

2014年6月16日月曜日

初診時の子どもたちの様子から

初診時の子どもたちの様子は緊張というのもありますが、子どもたちの特性、親子関係を含めたご家庭での様子、躾を反映しているなと常々感じていました。きちっと座って目を合わせて話せる子から質問しても答えずに目を合わさず、ゲームをする子まで。

医者になって10年以上子どもたちに接してきて、初対面からそれらの違和感を指摘することはやりすぎなのかなと思ってきました。なので、動き回ろうが、ゲームしようが、親御さんが注意されない場合にはそれでも診察を続けていました。ところが開業してから、いつの間にか、親御さんが注意されない場合には、自分がその子どもに態度を正すこと、視線を合わせること、話をするときには他のことはしないことを初対面から指摘するようになりました。そうすると、意外に子どもたちは聴いてくれるし、その時の親御さんの反応も見れる。さらに注意を再三しても一瞬でまた同じ行動を続ける子たちは限られており、発達障害やご家庭の環境の問題、躾の問題など、より問題が明るみにできることに気付きました。

もちろん、僕自身が若すぎて親御さんの目を気にして言ってこなかった部分もありました。でもそれを指摘しないと、子どもたちが外に出たときの態度は変わらないままですし、それに気付いていない親御さんもおられます。児童精神科の治療の最終的な目標はその子が自分の力で生きていける大人になってもらうことです。発達障害があろうがなかろうが、違うことは違うと指摘して、それでだめなのなら、どうしていけばいいのかを親御さんと一緒に考えるのが僕の仕事だと改めて感じています。

2014年6月13日金曜日

不眠はうつ、肥満を起こす

昨日は久留米大学の内村先生のご講演をお聴きしてきました。内村先生は睡眠がご専門で、睡眠がいかに重要か、不眠は精神疾患だけでなく、様々な内科的な疾患までも引き起こすことを強調しておられました。

まずは不眠とうつ病の関係。
寝るまでに1時間以上かかる人、熟睡感が得られない人はうつ病になるリスクが高まるというデータがあるそうです。逆に言えば、1時間以内に寝れていて、熟睡感が得られてるなら、まずは○ということでしょう。

2つ目に不眠と肥満との関係。
不眠の状態は摂食促進物質を上昇させ、摂食抑制物質を低下させるそうです。つまり、不眠状態だとやたらとお腹がすいてしまい、過食になって、肥満になるということです。仕事に行って、帰りに遅くまで飲んで、翌日にまた朝から仕事をするという生活を続けるのは、夜に食べたお酒の肴のせいだけで太るのではなく、過食の状態を作ってしまうという理由もあるわけです。

3つ目に朝ごはんを食べることの大切さ。
最近、人の消化管にも体内時計があることがわかったそうです。つまり、朝に口から食事を摂ることで、消化管の体内時計を起こして、置くことで、睡眠のリズムが整うのです。そうすると、夜もしっかり眠れる。

今の精神医学では他の身体医学と同様、生活指導の大切さはかなり強調されています。実際の診療の中でもその患者さんの生活を一緒に考えて、少し方向性を示すだけで、よくなられる方がいらっしゃいます。あまりにも言い古された言葉ですが、規則正しい睡眠と食生活はやはり大切です。毎日とは言いませんし、僕も必ずできているわけでもないので、偉そうなことは言えませんが、できるだけ心がけてもらえれば、精神も健康になると思います。

2014年6月11日水曜日

将棋盤をひっくり返して考える

羽生善治さんの本の中にこんなことが書いてありました。対局中に次の一手に困った時には目の前にある将棋盤をひっくり返して考えるそうです。それは相手から見た自分を想像するためです。今、相手は自分をどう見ているのか。それが見えると、自分が次にどう指せばいいのかが見えてくるそうです。

以前、ブログに書きましたが、僕にとって精神科診療は将棋の対局です。対局相手、つまり患者さんのことを想像すること。これは精神科診療においてもっとも大切なのではないかと考えています。つまり、診療中に今僕が話していることをこの患者さんはどう考えているのか、どう感じるのか、どんな言葉がその人の琴線に触れるのか、治療的に働くのか。さらに、できるならば、想像力を働かせて、その人の目から見た今の日常はどんな風に見えているのかを想像することです。それが見えた時にはかなり治療はしやすくなると思います。限りなくその患者さんが見ている視線に近づくので、こちらの言葉が的を得るようになります。

診察を重ねるごとに、その人の治療がうまくならないといけない。僕の師匠の山上敏子先生のお言葉です。わざわざ僕のクリニックに来てくれる患者さんに対して、僕はできるだけ治療がうまくなりたいです。

2014年6月5日木曜日

障害を持ってる子へも躾を

「この子は知的障害を持ってるから、このくらいは許し上げないとかわいそうなので」と幼いお子さんを自由にさせている親御さんやご家族に出会います。クリニックでの限られた時間でも入ってこられるとき、待合室、診察室、帰られるときの様子から普段の接し方が伝わってきます。触りたい物は何でも触らせる、多少騒いでもそのまま、子どもが歩き回るとそれについていく。

小児科医時代を含めて、今までたくさんの身体障害児、知的障害児にお会いしてきました。診察という生活のごく一部の時間ではありますが、親御さんの気持ちは伝わってきます。他の子たちと同じように遊べなかったり、勉強ができなかったりすると、わが子が不憫に見えて、このくらいは許してあげたいと思う。それはもちろん理解できないわけではありません。

しかし、ここで誤解を恐れず言うならば、障害を持っていることと甘やかすことは違います。

家族が許容する部分と社会が許容する部分には大きな隔たりがあります。家族は許せても、社会では許されないことはたくさんあるでしょう。しかも、その子が大人になった時に、少なくとも親御さんはもういない可能性が高い。その時には何らかの社会的なサービスを他人から受ける可能性が高い。そうなると、子どものころからいろんなことを許されていると、大人になったときにその習慣はそのまま出ます。いつも同じ言葉の繰り返しになりますが、その子が大人になった時に自分の足で立って生きていける子にすることはすべての子どもに必要です。それは障害を持つお子さんもできる限り、本人の能力を伸ばしてあげるという点で同じです。能力を伸ばすということは特殊な能力や勉強の話ではなく、社会で生きていける能力ということです。身体障害や知的障害を持つ人で社会的にしっかり生きておられる方にもたくさんお会いします。障害を持ちながら、気丈にがんばって生きておられる方。その方の思いやりや言葉遣いに自然に頭が下がります。

僕の知る限り、重度の知的障害のお子さんも相手の顔色、周囲の状況を把握して行動していることがほとんどです。つまりこちら側の気持ちや意図を読んでいる。対応で子どもは変わります。

障害を持ってる子にも善悪の区別を教えて、しっかりと躾をしてください。そうすると、近い将来も遠い将来も社会から愛される子になれると思います。





2014年5月27日火曜日

逆境力(レジリエンス,Resilience)

先日のクローズアップ現代のレジリエンスについての放送を見られましたでしょうか?

レジリエンスとは日本語では逆境力です。精神科の中では最近特によく耳にする言葉になってきました。

レジリエンスという概念は1970年代にできたそうです。そのきっかけになったのが、第二次世界大戦のホロコースト(ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して 組織的に行った大量虐殺)を超えて生きた孤児たちの中で、トラウマを乗り越えて前向きに生きていける人とトラウマを乗り越えられずに後ろ向きに生きる人の両方がいることがわかったそうです。同じ辛い経験をしているはずなのに、どうしてその後の生き方や人生が違うのか。

この研究でわかったことはレジリエンスには「思考の柔軟性」が必要だということでした。つまり、厳しい状況でもネガティブな部分だけでなく、ポジティブな部分を見いだせる人が逆境を乗り越えられるそうです。

それではそれを最近みんながよく使う「心が折れる」という単語を使って平易にして、「心が折れにくい人」とはどんな人なのでしょうか。

一般的に心が強いとイメージするのは「鋼のような」、「跳ね返す」、「硬い」、「頑丈な」というように何か強く硬い心でしょう。でもレジリエンスは柔らかくて前向きな心です。


多くの研究でわかったレジリエンスに必要な要素はこの5つです。

・感情のコントロール(一喜一憂しない。感情の起伏が激しく、一喜一憂する人はエネルギーの消耗が激しく長持ちしない)
・自尊感情(自分を過小評価しない)
・自己効力感(自分は少しずつでも成長していると感じる)
・楽観性(いつかうまくいくだろう)
・人間関係(自分を支えてくれる人たちの存在)

他にも愚痴を言うこと、困ったことを話す、一緒に笑う、食事(ブドウ糖を維持する、少量ずつ取り続ける)、運動(全力でのランニングを繰り返す、自己効力感が養われる)、逆境グラフを書いて、自分がこれまで経験した逆境をいかに乗り越えてきたのかを振り返る、諦める力、自分にとって本当に大切なものは何かを客観的に考える力などがありました。なんかうつ病の治療と重なりますね(笑)

僕は心がほんとに弱いですが、いろんな患者さんや自分も含めて、自分なりに今まで考えてきた僕が思うレジリエンスの育て方はこうです。

苦しいときに前向きな気持ちを持つためには
・日ごろから自分の人生に起こる物事(いいこともわるいことも)を深く考える習慣を持つこと
・自分以外の多くの人の考えをよく聴くこと
・本や映画などから多くの人の思考パターンを学ぶこと
が大切だと思います。

人生はずっと苦しいわけではない。それほど苦しくないな、今は楽な時間帯だなと思うときに、いかに思考の柔軟性を高めるか(苦しいときはそれどころではありません)。人は自分が苦しい状況に陥ったときに、頭の中でそこから抜け出す方法を必死で探すはずです。でも自分の中に探すためのいろんな引き出しや材料がないと、その方法を見つけられる可能性は低い。逆にいろんな引き出しや材料があると、その方法を見つけられる可能性は高まる。つまり普段からいろんな思考パターンのストックを自分の中にたくさん持つことです。思考パターンの数が少ない人はやはり打たれ弱いし、崩れやすい。逆に思考パターンが多いと打たれ強いし、崩れにくい。

人生で大きな逆境は毎日来るものではありません。でも誰にでも必ずその時は来る。それをどう乗り越えるのか。もっと言うなら、自分の力ではどうしようもないことで、どんどん落ちていく中でもいかに大けがをせずに着陸し、次の離陸のタイミングを待てるかだと思うんです。その時に必要なのがレジリエンスなのでしょう。

人生の有事に備えて、常に自分のレジリエンスを育てたいですね。

2014年5月23日金曜日

正面から向き合って、最後まで最善を尽くす

治療が難しい患者さんの治療に向き合うとき、内心、「もうこれ以上の治療法はありません。わかりません」と言いたくなる時があります。でも僕はたとえそう思ったとしても、医者として最後まで「わかりません」という言葉は言ってはいけないと思っていました(精神科の治療的に言うことはあります)。そこで医者が白旗を上げることは、患者さんを絶望させることがあるからです。

先日のプロフェッショナルで兵庫医大の外科の笹子先生が出ていました。日本での胃がんの最後の砦と言われる先生だそうです。

あるとき、長年治療をしてきたがんの術後の男性患者さんに先生は「治療法がないから、残りの日々を大切にしましょう」と提案しそうです。その方の死後、その方の奥さんから先生に来た手紙の中に、こんなことが書いてあったそうです。

「先生には申し上げられませんでしたが、治療法がないと言われた時から、あるワクチン注射を始めました。やはり効果はありませんでした。でも私たち凡人は何か少しでも効果がある具体的なものがあると、安心できるのです。とても恥ずかしくて申し上げられませんでした」

笹子先生はこんなことが患者さんのところで起こってるんだなと感じたそうです。その手紙を読み返しながら、泣いておられました。

そして笹子先生は「一番教わったのは患者さんからです。手術だけじゃなくて、1回1回逃げないで正面から向き合うことが大事なのかなと思います」とおっしゃっておられました。

一番教わったのは患者さんというのは僕も全く同じことを考えていました。そして患者さんはどんな大きな病気であったとしても、最後の最後の瞬間まで、希望を捨てたくない。その時、たとえ自分の手に治療法がなかったとしても、逃げないで正面から向き合う姿勢が大切なのだと改めて思いました。

2014年5月19日月曜日

成長には段階がある

以前、あるお鮨屋さんに行きました。そのお店の大将は僕と同じ30代半ば(正確には僕より1歳年上)。大将と若い男の子の2人で店を切り盛りされていました。店に入った瞬間から、その大将の緊張感が伝わってくるのと同時に、大将のあたたかい笑顔がありました。「苦手なものはありませんか?」、「どんな感じのお酒がよろしいですか?」。お鮨屋さんならごく普通の質問ですが、あたたかい声をかけていただきました。

他にお客さんがいなかったこともあり、大将といろいろ話をするようになりました。お店を始められて4年が経ったこと、新鮮な魚の見方、大将の師匠のお話などをお聴きしていました。それによると、ネットや広告などは出さないそうで、以前は禁煙にはしてなかったのを、禁煙にした途端、お客さんが減ったそうです。それは大変ですねと僕が返すと、「ほんとに大事なお客さんを少しずつ増やしたいんです。成長するには段階がありますから。飛び越えてあまり大きく成長しないほうがいいと思うんです」

同じ世代の人の言葉とは思えませんでした。相当苦労されてるんだなと感じました。

成長には段階がある。

僕は自分の性格上、せっかちすぎてすぐに結果を出したいので、常に次の一歩を目指してしまい、焦りばかりが前に出ます。でもそんなに簡単に結果が出るわけがない。日々の積み重ねがある日、花を咲かせるわけです。商売が少しうまくいくと、急にたくさんの店舗を出して、宣伝を派手にして、倒れていくお店や企業はたくさんありますよね。こんな僕にもテレビや新聞の取材が来たことがあります。でも、どう考えても今の僕は何かコメントしたり、取材を受けて広く話すレベルにない。僕に依頼が来る理由は簡単です。ただ単に大阪で児童精神科医が少ないから。それだけです。僕が何かすごいわけじゃない。しかも、もしそれでテレビや新聞に僕が出たりして、患者さんが一時的にたくさん来たとしても、今の僕の実力、体力ではただ単に患者さんをこなすだけになってしまう。一人一人の患者さんの期待に添えなくなってしまう。むしろ、その波に飲まれてしまい、自分が疲弊しそうでした。そうなると、今僕のところに来てくれている患者さんに迷惑をかけるだけでなく、自分もつぶされてしまう。そんな予感がしたんです。


無理な広告をせず、一気に仕事を広げない、目の前のお客さんを大切にして、ゆっくり成長していく。この大将なら、お鮨屋さんでお客さんにおいしくお鮨を食べてもらうためにはたばこの臭いがしないほうがいいに決まってるわけです。それで愛煙家のお客さんが減ったとしても、喫煙しないお客さんには確実に喜ばれます。繰り返しになりますが、やはり、目の前のお客さん一人一人に満足してもらうことが何よりも大切。目先の利益ではなく、時間はかかっても目の前の小さな結果を積み重ねていく。その間にゆっくりと自分の実力と体力をつけていく。それが本当の意味での成長なんだと考えています。

2014年5月15日木曜日

誰のおかげで今があるのか

親にしてもらって当然という子どもに出会います。僕も子どもの頃、親がしてくれるものをそのまま受け入れているだけでした。

僕は衣食住を含めた生活の面、学校についても何不自由なく育ちました。家長である父は常に一番偉い存在であり、僕たち家族を養ってくれているのだという話を常に母から聞かされていました。食事は父が食べるまでは誰も食べません。家族全員が父の決定に従います。普段は学校のこと、勉強のこと、将来のこと、その日の父の仕事のこと、読んだ本、その日の新聞の話題、あらゆる話をしてくれました。そして最終的には必ず「何をして食べていくのかを考えておけ」という話に収束します。そして、間違ったことをしたときは震え上がるくらいの怖さで叱られ、叩かれました。あと、我が家では両親には敬語でした(もちろん今も)。

ということで、子どもの頃、僕は愛情と厳しさいっぱいの両親に育てられました。一言で言うなら、「思いっきり抱きしめられながら、思いっきり殴られた」と表現できると思います(笑)。

直接的に親を尊敬しなさい、親に感謝しなさいなんて言われたことはありませんが、知らず知らずのうちに尊敬と感謝をしていたと思います。おそらくその理由は母から聞かされていたさきほどの言葉と、両親が一生懸命僕たち家族のために生きている姿を目の当たりにしていたから。僕の場合は父の仕事場と家がくっついていたため、仕事を終えて、憔悴しきった父を見て育ちました。それでもまだわからなかった鈍い僕は社会に出て、冷たい社会の風を浴びるようになった20代後半から親のことを思うようになりました。何も特別でない、どこにでもある話だと思います。

今の僕は大げさではなく毎日のように、知らず知らずのうちに、誰のおかげで今の自分があるのかを思っています。それはもちろん両親のおかげです。なので、同世代以上の人の口から「親にもう2年は連絡してないなあ」みたいな発言が出てきて、育ててくれた親に感謝しない人を見ると、とてつもない違和感を感じます。「今のあなたは一人でここまで来たのですか?」と聞きたくなります。その想像力のあまりの乏しさに、言葉も出ません。

子どもに幼いころから仕事をしている親の姿をできるだけ見せたり、説明したりして、毎日のこの生活は当たり前に来るものではないことを話すことが大切です。それが今はわからなくても、いつかその言葉、その風景を思い出すことがある。将来への布石として、それも一つの教育になると思うのです。

2014年5月14日水曜日

「京味」の西健一郎さん

最も予約が困難な店と言われる東京、新橋にある日本料理店「京味」。そのご主人、西健一郎さん。

以前からこの方の存在は知っていましたが、最近、AERAでこの方の記事を読みました。

17歳で父のツテで修業に入ったお店はカウンターのみで、客と板前が向き合って、差しで料理を出す方式。板前の技量がそのまま問われる環境だったそうです。30歳で独立して京味を開業。以来半世紀近くにわたり、志賀直哉、有吉佐和子、梅原龍三郎など時々の名だたる文化人に愛されてきた。

ご本人は権威を好まず、国からの褒章に興味を示さず、某グルメガイドの三ツ星もあっさりを断ったそうです。

かっこよすぎる!!!

「目の前のお客さまが喜ぶ顔を見たい。そしてそのお客さまに、もう一度店に来ていただきたい。それだけが大事なんです」

西さんの言葉です。

これを本気で思っているからこそ、半世紀近くも店を維持し、日本を代表する料理人になられたのでしょう。

多くの人は功名心があります。有名なお店に行くと、芸能人のサインがいっぱい張ってありますよね。~賞をもらった、テレビに出た、雑誌に出た、名刺に山盛りの肩書を書く人、あるいは「元~」みたいに自分の肩書を残したがる人、さまざまな自分を自慢したい人に出会いました。結局はみんな同じ。形はさまざまでも「自分はこんなにすごいんだぞ」というのを人に言いたいだけ。僕も含めて、むなしくて恥ずかしい行為な気がします。僕も開業するときに役立つかなと、資格というものをいくつか取ってみました。でも誰もそんな肩書きに興味はない。むしろ、それでその人をすごいと思ってしまう人は自分に基準のない人です。肩書が大切なのではなく、本当は目の前の顧客を満足させられるのか、そこが問われているわけです。

昔、司馬遼太郎さんの資料館に行ったことがあります。その時に一番感動したのは司馬遼太郎さんの名刺には「司馬遼太郎」という名前と住所、電話番号しかありませんでした。肩書はありません。もちろん日本を代表する歴史小説家であり、この上ない著名人ではあります。でも肩書がないのは著名人だからではなく、人に会うときに肩書で勝負していない、つまり、人に会うのに肩書なんてどうでもいいわけです。人に会った時の生身の自分で勝負しているからでしょう。

某グルメガイドの三ツ星もあっさりを断った西さんは生きていながら、見てる高さが違う。見てる景色が違う。畏敬の念を禁じえません。一番大切なことって、やっぱり自分の仕事に一生懸命なことだと思うんです。肩書や名誉じゃない。ひたむきに自分の仕事に向き合う西さんから学んだことでした。

2014年5月8日木曜日

学校に行くことの意味

不登校の子どもたちに会う中で、学校に行くことの意味を自分の学生生活を振り返りながら、考えます。僕は小学校から大学まで18年間、学校というところに通いました。実は今も大学院というところで勉強していて、今4年生なので、合計22年間も学生をしていることになります。すみません、話題がそれました^^

閑話休題。

僕が思うに、学校に行くことの意味は三つある気がします。

・一つ目に同世代の人たちとの中で自分の考えを修正しながら作り上げられること

・二つ目に周囲と合わせるという協調性を学べること

・三つ目に自分がしたくないこともある程度はしなくてはいけないということを学べること

実は学業というのはこのあとに来るんじゃないかと考えます。

人は自分の考えというのはもうある程度できているように感じていますが、実は大人になっても、常に修正が必要なものです。特に子ども時代や学生時代には特に必要で固まりきってしまう前の考えは何度もこねくり回されて、やがて本人の形になるものでしょう。

協調性と自分がしたくないものをしなくてはいけないことを学ぶのはある意味似ています。
つまり、自分の思い通りにならないことをとりあえずはしていくというものです。今日は学校に行きたくないなあというのを抑えて、学校に行く。この子とは話したくないなあと思いながらもある程度は話をする。大人になって会社に行くときも同じことが起こります。嫌な仕事をしないといけないこともあるでしょう。

僕たち大人が無意識にしていることは実は学校を含めた社会で学ぶことが多いのです。だから、ケケースバイケースですが、基本的にはやっぱり学校には嫌でも行った方がいい。その方が、その子が大人になった時に多少嫌なこと、嫌な人とも一緒に仕事ができるようになると思うのです。


2014年5月2日金曜日

島へ



「島へ」という雑誌をご存知ですか?

日本で唯一の島マガジンだそうです。

開業するときにクリニックにどんな雑誌を置くのかで、自分ならどんな雑誌があれば癒されるだろうと考えて、この「島へ」という雑誌に出会いました。クリニックや病院に置いてある雑誌って、決まって、芸能雑誌や一般の新聞。僕は自分が医療機関を受診するときに、それを見るのが嫌でした。

この「島へ」は他の雑誌とは確実に一線を隔しています。日本中の島や離島を取材して、きれいな景色の写真はもちろん、そこに住んでいる人の生活、その島のおいしい物やおすすめの宿、求人情報、最後にはその島の不動産の値段まで書いてあります。僕はこれらの内容にいつも癒されています。

この中で、僕のお気に入りは離島に移住した人の移住体験レポートです。都会で暮らしていた人たちが島に移住して、どんな生活をしてきたのかという内容のものです。今回は北海道から与那国島に移住した女性のお話でした。その中で、島で仕事をもって生きていけることへの感謝とともに、その女性が最も感謝するのは雨の降る日だそうです。雨の降る日にしみじみと「屋根のある家でお布団で眠れるのは幸せだな」と思うそうです。なんか心があったかくなりました。都会の住宅に住んでると、そんなことを忘れてしまうのに、島の家で暮らす人はそんなことを感じるのだなと思いました。

上の写真は高知を歩いている時に、森の中から海を見た時の写真です。島でもなんでもありませんが、きれいだったのでアップしてみました。

2014年4月28日月曜日

精神科における病気を受け入れてもらうこと

小児科で臨床をしているとき、先天性疾患、癌、心臓病、腎臓病、膠原病など、その人の一生を左右するような大きな病気の説明をすることがありました。その時、内心ものすごく負担でしたが、誠意をこめて丁寧に説明すれば、ほとんどの場合、納得していただけました。なぜなら、それは誰の目で見ても変わらない診察や検査の結果という事実があるからです。

ところが、精神科の臨床では統合失調症の幻覚妄想や躁状態、うつ状態、自傷行為、発達障害であったとしても、本人や家族が納得できない場合があります。特に、それが症状が初期の場合に顕著です。それは「うちの子にそんなことはない」とか、「障害じゃなくて、ちょっと生活しにくいだけです」とか、症状がまだ一定しない場合には一見症状が見えにくいときがあるため「まだ決まったわけではないですよね」などと受容が難航することがあります。でも患者さんや家族は何らかの困難や問題を抱えているため、精神科の門は叩いてくれる。そこにはもちろん大きな葛藤があります。

確かに、精神科の診断は診察してとれる所見から精神科医がするものであり、誰が見てもわかるような客観的な診察所見や検査結果がない場合があります。そうなると、患者さんや家族への説明が難しくなる。でも実際には小児科における先天性疾患、癌などと同様に、その人の一生を左右する重大な病気です。何も体の病気だけが、人の人生を左右するのではなく、精神科の病気ももちろん人生を左右します。

そこで難しいのは、こちらがあまりに熱く説明しすぎると、変に説得や押し付けみたいになってきて、患者さんの反感だけを買うことがある点です。診断や治療を受け入れてもらえず、通院や内服を拒否されたり、中断されたりする方をたくさん見てきましたが、ほとんどの場合、もう一度会うことになります。それはもちろん、医療者側も患者さん側も望んでいることではありません。

精神科における病気の説明、告知は他の科に比べてわかりにくいため、かなり慎重に、しかも丁寧にする必要があると痛感しています。その時に自分が持てるだけの知識や治療法を誠心誠意説明する。そして、たとえ受け入れてもらえなくても、何か異変があれば、「またもう一度来てもいいかな」くらいにしてお帰りいただくよう心掛けています(あくまでできるだけですが)。ここでも精神科における「治療をつなげていく」ということの大切さを改めて考えさせられます。何かあった時に来てもいいと思ってもらえるようにする。それが5年、10年後のその人の人生にとって何らかの役に立つのではないかと信じて、今日も診療をしています。

2014年4月25日金曜日

見たいテレビ番組

テレビに関する考えはいろいろあると思います。テレビを家におかないという考えから、テレビを1日中見ても飽きないという考えまで。

僕は性格上、テレビを何となく見ることが苦手です。なので、流行している話題、芸能人、歌など、ほぼ知りません。社会で流行していることよりも、今の自分が何に興味が向いているのかのほうがどうしても気になります。もちろん、娯楽番組もいいとは思いますが、僕はあまり興味を感じません。

ニュースに溺れてしまうというデメリットもありますが、自分はどんなものに興味を持つのかを知りたいこと、新しいものを常に自分に仕入れることからテレビを見ます(新聞も同様ですね)。

僕のおすすめは「カンブリア宮殿」、「プロフェッショナル」、「スイッチインタビュー」です。あと、「アスリートの魂」も、朝から自分のテンションを上げるのにはいいです。

他にガイアの夜明け、情熱大陸、ソロモン流などたくさん見てきましたが、これらは内容がマンネリ化していたり、芸能人やスポーツ選手が出すぎて、この世で懸命に生きてる人はテレビ界にしかいないのかと錯覚してしまうくらいです。特に今の情熱大陸、ソロモン流はほぼ芸能ニュースに近いです。それで最近はこれらはほとんど見ません。

カンブリア宮殿は第一線の経営者が登場して、その人の経営哲学もそうですが、何を目指して経営し、生きているのかをしめしてくれます。それは年商何千億であろうが、何百万であろうが規模に関係ありません。カンブリア宮殿に出るすごい経営者たち共通するのはお金ではない、もっと違うやりがいや興味を求めているところです。それの多くは人のためであったり、世の中を変えたいというものです。何か熱い思いがそこにはあります。

プロフェッショナルは第一線の一人の技術者というか、会社というよりもその人を追いかけてくれるので、その人個人の仕事への姿勢、生き方が見れます。

スイッチインタビューは第一線で活躍している人同士がお互いにインタビューをします。そして、自分の仕事における共通点や相違点を話題にしていきます。これはかなりレベルの高い会話をされるので、なにかいい座談会を見せてもらってるような気持ちになれます。

直近で一番印象的だったのはプロフェッショナルで、脱サラして一から自分で勉強して日本を代表するチーズ職人になった吉田全作さんでした。

「常に険しい道を選んできたからこそ、今がある。自分の思った道を実現するにはいろんな道がある。簡単な道と面倒くさい道の岐路がある。その時は必ず面倒くさい道を選ぶ。そうすると必ず成功する。なぜなら面倒くさい道は誰も選ばないから、そこに多くのヒントが転がっている。僕はそれを経験から知っている。」

しびれましたね。

これらのテレビ番組は手軽にすごい人の話を聴けるという点で、素晴らしい本を読む、素晴らしい人の話を聴くのと同じくらいの価値があると思います。みなさんもぜひ、ご覧ください!


2014年4月21日月曜日

将棋と精神科治療は似ている

子どものころ、一時期将棋にはまって、デパートで開催される日曜日の将棋祭りに行ったことがあります。長いテーブルを4つで正方形にして、中にはプロ棋士の人がいて、そのテーブルの上に将棋盤が並べられ、子どもたち20人くらいに対して同時に指してくれます。飛車、角落ちの状態ですが、もちろん相手になんかなりません(笑)。プロ棋士の人が一人ずつにまわってきてくれて、状勢を見て、一手を指したら、となりの子どものところに行き、また一手指します。

ある日診療をしていて、ふとこの昔のこの時の光景が浮かんできて、僕は患者さんを相手に診察のたびに将棋を一手ずつ指しているのと同じだなと気づきました。どうしたらこの将棋を詰めることができるのか。つまり、患者さんがよくなるのか。先ほどのプロ棋士の人と同じで、1日に何十人もの人と連続的に対峙して、その日の一手を指すわけです。

僕は将棋と精神科の共通点を感じてからは棋士の書かれた本をよく読むようになりました。
森内俊之名人の著書の中で対局の最中に「こんな手があるのか、こう攻めてくるのか」と気づいて、どんどん知的好奇心が刺激されて、それで自分が成長してることを感じるとありました。これまた僕も診療の中で患者さんが言われることで、「なるほどこんなときは人はこう感じるんだ」と内心すごく興奮するときがあります。それを自分の中に貯めていける、吸収していける瞬間があります。こんなところまでも、似ていると読んでいて感じました。

診療での自分の中の蓄積を多くして、明日も効果のある新たな一手が指せたらいいなと思います。

2014年4月18日金曜日

「うらやむこと」と「ねたむこと」は違う

僕はお酒を飲むことが好きなので、よく場末の居酒屋さんに行きます。そんなところに行くと、上司や部下の悪口を言ってる人によく出会います。

「あいつは運がよくて営業成績を上げている」、「なんであいつが出世するんだ」、「自分にはこんな辛いことがあって我慢してるのに」、「お金があっていいよね、あの人は」みたいな会話が多い気がします。

僕は「うらやむこと」と「ねたむこと」は違うと思っています。
自分よりも何かが上手にできたり、いい生活ができたり、いい結果を出せてる人を見ると、僕はすごくうらやましいです。自分もそうなりたいと思う。そうするためにはどうすればいいのか、その人と自分は何が違うのか、その方法を探して、何かいい方法があるなら直接聞きたいと思います。そして実際に聞いてしまいます(笑)

でも世の中には自分は努力をせずに、先に自分できない理由を並べてから嫌なことは避けて、他人のことを嫉む人が多いなと感じています。そして、どういうわけかそんな人は実際に精神的な調子がいつも悪いし、イライラして、表情も暗い。ねたむという思考が脳に相当なストレスを与えるのだと想像しています。

うらやましいという感情はどちらかと言えば、前向きです。自分もそうなりたいと思う。大学受験に失敗したけど、友達が合格したことでそれがうらやましくて自分もがんばる。仕事ができる先輩みたいになりたい。でもねたむという感情は後ろ向きです。他人への陰性感情がどうしても入ります。なんであいつだけあんなにうまくいくんだみたいな。

うらやむことと、ねたむことの道が分かれるのは、自分よりもいい状態にいる人を見たあとに、どう考えて、どう行動するかです。その人を見習いたいと思うのか、その人への批判の感情をもつだけで終わってしまうのか。

「これほどの努力を人は運という」という言葉がありますね。
本人はすごく努力して得た結果なのに、人はその努力や結果を運がいいという言葉で片付けます。人生というか、ねたむ人の気持ちをうまく表現した言葉だと常々思います。

今日は僕の大好きな見城徹さんが本の中でこの言葉について触れていたので、最後に載せたいと思います。

何かがうまくいってるときに人はみんな「運がいいよね、うまくいっちゃって」って言うけれども、冗談じゃないよ。俺はあなたの100倍血のにじむような努力をしてるんだっていうふうに言いたい気持ちを抑えて、飲み込むわけですよ。それを言っちゃったら馬鹿だから。「運がいいよね」って言われてない時はうまくいってない時だから「運がいいよね」って言われなきゃだめなんですよ。

2014年4月15日火曜日

製薬会社の方と接する中で

今まで多くの製薬会社の方にお会いしました。

昨今は利益相反の問題がニュースになり、良いか悪いかは別にして、マスコミは面白おかしく医者と製薬会社の関係を騒ぎ立ててくれます。それが大きくなって、病気の概念にまで影響するほどの大きな問題が話題にもなっています。

医者になったころからずっと思ってきましたが、製薬会社の方々の平身低頭がすぎる態度は僕たち医者を人としてダメにしてくれるんだろうなと思います。お会いするときには「先生、先生」で、基本的にはちやほやしてくれます。そうなると、医者のほうはお互い社会人で大人同士なのに、初対面からため口で、製薬会社の人を顎で使うみたいな人が必ず出てきます。そんな医者を見るたびに、「何がそんなに偉いのかなあ、いい大人なのに初対面から他人にため口ってすごいなあ」と常々感じていました。少しちやほやされただけで、すぐに態度が崩れてしまう医者の姿に、その人の本質を感じたものです。でもそれを作る製薬会社のほうにも問題がある。

時に、あまりに頭をさげられるので、中には慇懃無礼にしか見えない方にもお会いします。「あーこの人はこんな態度で医者を内心馬鹿にしてるんだろうな」とも感じました。それくらい医者という人たちの中には馬鹿にされていることにも気づかない人が多いのだろうし、医者の平和ボケが進んでいるのかなとも想像しました。

僕は仕事の上で、製薬会社の方は対等にお付き合いするべき存在だと認識しています。僕たち医者にとって、薬は不可欠な武器です。その薬とその情報を提供してくれてはじめて仕事ができる。もちろん、僕たちが薬を使うことで製薬会社も収益をあげる。お互い持ちつ持たれつの関係です。いわば、仕事のパートナーです。なので、個人レベルではお互いに普通の社会人として尊重し合うべき存在です。

僕は決して製薬会社の方を嫌ってるわけではありません。僕が人として尊敬している人や仲良しで大好きな人もたくさんいます。尊敬できる方々は、人に接するときの基本的な姿勢を僕に教えてくれました。どうすれば相手のためになるのか、喜んでもらえるのかを。

あるとき、MRさん2人と僕とで一緒にタクシーに乗ることがありました。その時に「僕が真ん中に乗るので、先生は先に乗ってください」と言われたのです。この瞬間、ハッとしましたね。車の後部座席は真ん中に座る人が一番不便な姿勢になります。それからは僕は目上の人と3人でタクシーに乗る時は自分が後部座席の真ん中に座るようにしています。これを教えてくれた方は僕が開業した時にクリニックに来てくれました。この時にも内心、さすがだなと思ったものです。製薬会社の方は薬のことだけでなく、営業のことや社会での処世術まで、1日中診察室に座っている僕たち医者にはわからないことを教えてくれます。

医療者が製薬会社の方と人として対等に仲良くすることで、お互いにたくさん学び、それらを患者さんに還元することが医療者と製薬会社の務めです。そしてそれができれば、医療者も製薬会社の方も仕事のやりがいを感じれると思うのです。こういう意味でwin winの関係になれたらいいですね。
今日もそんな気持ちでうちのクリニックに来てくれる製薬会社の方々とお話しています。

2014年4月14日月曜日

患者さんに苦言を呈する

生きている中で人に対して苦言を呈するときは誰しもあることだと思います。

僕たち精神科医は生活のこと、その人の人生が話題になることが多い分、僭越ながら患者さんに苦言を呈することがあります。これはなかなか勇気の必要なところです。逆に言えば、患者さんの言うことに同意を続けて、やさしい声かけをすることは簡単です。そうすれば、患者さんと表面的にはうまくいくでしょう。でもそんななあなあの治療で、実際にその方の状態がよくなっているのかです。大切なのはその患者さんがよくなっているのかです。

診察を重ねる中で、患者さんにとって「ここはがんばりどころですよ」という時があります。それは患者さんにとっては痛いところを突かれたり、耳の痛い話なわけです。僕自身も自分でいいながら、これを受け入れてもらえる状態なのか、この言葉が本当にこの人のためになるのかを考えてから発言するようにしています。やはり苦言を呈するにはいつどのタイミングでいうのかが大切です。

最後はもう賭けとしか言いようがありません。この言葉を発することで、その患者さんが怒ってしまってもう来ない可能性もあります。精神科の治療は1回1回の診察をつなげていくことが大切なので、来なくなると終わってしまう。それは僕としては避けたいところです。ただ、僕がいつも思うことは僕に嫌なことを言われたからと、そこから奮起してがんばってくれればそれでいいと思っています。通院を続けることが目的なのではなく、その患者さんの状態がよくなることが目的ですから。もっと言えば、その時は状態が悪くなってしまったとしても、いつの日か、僕の診察の中での言葉を思い出してくれて、それで状態がよくなれば、うれしいなという一抹の希望を持って、苦言を呈するようにしています。


2014年4月8日火曜日

生きることは自分にとっての「真実とは」を探すこと

僕は哲学的なことは全くわかりませんが、物心ついた10代から日常生活での一つ一つの悩みを通して、生きていることは結局どういうのことなのかと自分なりに思いあぐねてきました。

例はいくつもありますが、たとえば、人付き合いでうまくいかないのでどうしたらうまくいくのか、テニスがうまくなりたいけどどうしたらうまくなれるのか、一番自分がリラックスできる時間の使い方は何なのか、どうすればいい診療ができるのか、自分が一番わくわくするものは何なのか、自分とはどんな人間なのかなど、枚挙にいとまがありません。さらに言えば、今日のお昼に何を食べようかなあ、自分は何が食べたいのかなあと考えることさえ自分が本当に欲しているものは何かと考える点で、それほど違わないと思っています(笑)。これらに共通することって何なのか。30代に入ってあるときふと気づいたのですが、これは自分にとって「何が真実なのか」を追及することなんだと。要するにある事象や物事の中で何が一番いい方法なのかを悩んだその延長線上に、何が真実なのかを追い求めているわけです。逆に言うと、いろんなことを追及したり、悩んだりしないと、真実や人生は見えてこない。いつまでたっても五里霧中のままです。

故事や偉い人の言葉は多くの場合、物の本質をついています。なるほどと納得することが多いでしょう。しかし、たとえばその故事の中で「善は急げ」と「せいてはことを仕損じる」、「果報は寝て待て」と「まかぬ種は生えぬ」のように全く逆のことを言っているものがあります(こまかな解釈の仕方はあるにしても)。または故事を聴いて「自分はそうは思わないな」と違和感を感じた経験はないでしょうか。つまり人によって、どちらかに意見が割れることがあります。それは人によってその人の思う「真実とは」の定義が違うのだと思います。なので僕が「これはこうだ」と信じていることを他の人に押し付けることはできません(ただ聞かれた場合には自分なりの真実だと思うことを話します)。人によって見てきたものが違うため、「真実」が違うからです。何が正しくて何が間違ってるかという話ではありません。常軌を逸していない限り、その人なりの信じている真実があっていいのです。またその「真実」は年齢によって変遷していくことも当然あるでしょう。僕はいつの日か、いろんなことについての自分にとっての「真実とは」の答えが一つに集約されて見つかればいいなと思っています。

 「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ(精神的に自立する)。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう、他人の意見に反発を 感じず、素直に耳を傾けられるようになる)。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず(自分の思うがままの行いをとっても自然の法則から外れることがない)。」

有名な孔子の言葉ですが、これができる人は真実が見えてる人じゃないかと思っています。できるかどうかは別にして、目指していきたいですね。



2014年4月5日土曜日

寒い日にあたる焚火のようなクリニックでありたい

自分の居場所がない、自分をどこに置いていいのか、どこにいたら楽になれるのか、それがわからない子どもたち、若者、大人に出会います。

多くの場合、家に居場所がありません。「私、今からどこに行けばいいのかわかりません」と。それを聴く僕が後ろ髪をひかれるような台詞です。勤務医をしていれば、「じゃあ今日は病院で過ごす?」と入院を勧めることもできるのですが、クリニックではそれができません。どうにかしてあげたいけど、僕にはどうにもできない。ずっとそばにいるわけにもいかない。もどかしいですね、こんなとき。

この時に僕ができるささやかなこととして、「ここで少しゆっくりしてから帰ってね」と待合室やクリニックの中で過ごしてもらうようにしています(本心ではお茶の一杯でも出したいくらいです)。ただ、待ち合いが込み合いすぎて、ゆっくりできないこともあるので、できるだけ、静かな時間帯に来てもらうようにしています。

僕、人はみんなさびしがり屋なんだと思うんです。外から見た時にすごく元気で前向きでエネルギーにあふれているように見えている人も、一人の時の顔はそんなことない。さびしいな、虚しいなという気持ちを自分なりに誤魔化して生きる。それが普通の人なんじゃないかと。

小さなクリニックの開業医である僕にできることはあまりにも限られているので、心が寒くなった時に、焚火にあたりたいなという気持ちで行きたくなるような宋こどものこころ醫院でありたいと思っています。

2014年4月4日金曜日

3歳で単語しか出ないお子さん

2歳から3歳で言葉がまだ単語だけというお子さんに開業してから特によく出会うようになりました。

まず最初に確認したいところは聴力、発語に関係する口腔内、咽頭、喉頭、頭蓋内の器質的疾患がないか、自閉傾向を含めた発達障害の有無です。当院では発達障害がある場合には、応用行動分析(ABA)での対応を親御さんにお伝えして、それをご家庭で実践してもらい、全体の発達を促す中で、発語を促すことをします。

しかし、中には単語は出るけど、それ以上がなかなか伸びず、器質的な病気や自閉症はない方が来られます。
そのときに僕たち児童精神科医に何ができるのか。実は開業して以来、ずっと考えてきましたし、今の時点で、僕自身にも明確な答えや対応方法は見つかっていませんが、いくつか共通点を見つけました。

・お母さんと子どもが二人きりで、過ごしている時間が長い場合
・お母さんが育児に疲れて、子どもに関わっている時間が短い場合
・まだ幼稚園や保育園などの集団生活を迎えていない場合

当然ですが、言葉というのはインプットがあるからアウトプットがあります。英語を聴き取れない人は英語は話せません。たくさん聴いた経験があるから、ある時から言葉が口から自然と出てくるわけです。それは子どもも同じです。

言葉を促すのに必要なことは一緒に遊ぶこと、絵本の読み聞かせ、さらにテレビの幼児番組もいいと思います。1日2,3冊でもいいので絵本の読み聞かせは続けてあげてください。本に対する興味を持つきっかけにもなり、将来的に本を読む子になれる可能性が高まります。

そして同時にお母さん自身も子どもに接する時間を持つために、ご自分の充電を忘れないで頂けたらと思います。




2014年4月2日水曜日

春のお遍路


みなさん、お遍路をご存知でしょうか?僕は毎年春にお遍路に行きます。

弘法大師(空海)が四国を歩くことで修業をしたとされ、それにゆかりのあるお寺八十八か所をまわることでご利益が得られるというものです。ただ、僕は何かご利益を得るためというよりも、ただひたすら早朝から夕方まで1日中歩くだけという非日常に自分を置いて、自分を充電することが目的です。ちなみに、八十八か所のお寺をすべてまわれば、総距離は1200km程度と言われています。もちろん、通しでまわれるわけはありません。中には通しで回る人もいますが。。。僕は1日20-30km程度しか歩きません。しかも分けて行くので、1回のお遍路で多くて3-4か所のお寺をまわります。

僕が初めてお遍路に行ったのは2008年の春でした。その当時、僕は大阪の病院から東京の病院に移る前で、忙しい日々の生活に疲弊していました。その時、弟からお遍路はいいと言われ、何がいいのかもわからず半信半疑で四国に行きました。その際に通りかかった室戸岬を望む丘に立ったとき、弟が「ここええやろ」との言葉で、自分の中で何かが切れたかのようにむせび泣きました。30分は涙が止まりませんでした。でも自分自身でもなぜ涙が止まらないのか説明できないでいました。そのあとに、「ああ、自分は疲れているんだ」と気付いたのです。

それ以降、毎年気候がよく、桜や菜の花がたくさん咲き、文旦、はっさくの実がたくさんなる春に四国に行きます。きれいな花は見放題、柑橘類は食べ放題です(笑)。お遍路に行くと、5時に起きて朝食をとり、6時から夕方までただひたすら歩きます。その間に美しい四国の景色を見て(これがメイン)、他のお遍路さん(お遍路に行く人をこう呼びます)と話をし、地元の人からお接待(食べ物、場合によってはお金のことも)をいただくこともあります。四国の人たちはお遍路さんというだけ話しかけてくれたり、やさしかったりします。そして、夜は民宿で食事をしながら全国、あるいは外国(韓国、中国、アメリカ、シンガポールの人に出会ったことがあります)から来られたお遍路さんたちと身の上話をすることもあります。その時に感じるのはお遍路に来られる人たちは人生で何らかの悩みや事情があって、来られる方が多い気がします。

さて今回、高知県の中村でタクシーに乗ったのですが、運転手さんの手が震えていて、スピードも40キロくらいしかでないし、ブレーキのタイミングも遅い。怖すぎます。どうみてもその方は80代でした。助手席の前にある運転手さんの生年月日に目をやると、64歳。写真も異様に若い。気になって「お若い時の写真なんですね」と僕が言うと、運転手さんは「それ俺じゃないよ。俺の車は今友達が遠くまでお客さんを送ってるから。」とのこと。つまり他人の車でタクシー営業をしているわけです。僕はもちろんそんなタクシーに乗ったのは初めて。まったく悪びれる様子もなく普通に答えるその姿に笑いを抑えるのが大変でした。

こんな出会いもお愛嬌です。人生に疲れたときの一つの選択肢としてお遍路をお勧めします。

2014年3月29日土曜日

スタッフミーティング

僕のクリニックでは開業以来、毎朝30分、全員(僕、看護師、心理士、受付)でその日に来られる患者さんの情報共有のためのスタッフミーティングをしています。

1日に何十人と来られる患者さんの中で、安定されてる方、不安定な方、診断書などの書類が必要な方、検査が必要な方、カウンセリングが必要な方、生活面でのサポートのために行政や福祉のサービスが必要な方、病院への紹介が必要な方など、ニーズによってほんとに多種多様なことがあります。

ミーティングの中では僕だけでなく全員で発言してもらい、すべてのスタッフからその患者さんについての情報を共有します。たとえば、入ってこられた時の様子、待合での様子、遊んでいるときの様子、診察中、診察後、採血時、カウンセリングの様子、会計時など、すべて患者さんについての情報になります。僕はあくまでも診察室での限られた時間しか患者さんを見れていません。クリニックにおられるすべての時間を治療につなげていけると考えています。以前にも書いたとおり、クリニックに入られてから出られるまでが治療です。診察、診療も同様です。

患者さんについての情報はスタッフ全員が把握しているべきだと考えています。患者さんがクリニックに入られたときに、受付さんがその患者さんの状態を把握しているだけで、言葉のかけ方や対応の仕方が変わると思うからです。

また、患者さんの情報を当日の朝に確認することで、スタッフ全員の心の準備になり、その日にどう動くべきなのかなど、余裕が生まれるというメリットもあります。僕自身も、診察直前にカルテを急いでみて、土壇場の判断となることはしたくありません。これができるのも、小さなクリニックだからこそと思います。

スタッフ全員でできるだけの情報を把握して、気持ちに余裕をもって診療に臨むことがいい診療につながると信じています。

2014年3月25日火曜日

なぜ精神科医はすぐに薬をだしてしまうのか

薬は医者にとって本当に大きな存在です。診断までは医者がして、治療は薬がしてくれる。特殊な治療手技を必要としない外来診療であればメインの流れと言えます。

精神科医も同じです。寝れないと聞けば睡眠薬、不安だと言えば抗不安薬、イライラするなら抗精神病薬、教室で席に座っていれないならADHDの薬・・・。

「医者にかかって、何か一つ症状を訴えれば、薬が一つ増える」。これは精神科ではそれほど珍しいことではありません。なぜならこれは患者さんから何度も教えてもらった言葉だからです。「診察が始まって5分で人格障害と言われました」、「診察の前にチェックシートに○をしたらADHDと診断されて、~という薬を出されました」。大概いろんな医者の話を聞いてきたつもりの僕も、これらの言葉の前には何も言えませんでした。

なぜ精神科医はこんなにも薬を出すまでの時間が短いのでしょうか?

理由は2つあります。
1つ目は診断から治療までを問診のみでするから
2つ目は薬を使わない治療は苦しいから

まずは1つ目について。
内科や外科の先生は診察のあとにいろんな検査をしてから、薬を出すという流れなので少し時間がかかります。一方で精神科では検査がほとんどなく、問診が検査に相当するため、診断から薬を出すまでの時間は必然的に短くなります。また患者さんとしても薬をもらうと何かしてもらった気になるので、納得しやすいという現状もあります。

そして2つ目について。
実は薬をすぐに出してしまう精神科医の気持ちはすごくよくわかります。理由は簡単です。精神科医として患者さんの症状を丁寧に聞いたり、症状を治す方法を探すにはものすごいエネルギーを消耗します。患者さんの症状対してその時の想像力を最大限に活用して治療法を模索するわけです。その上、その症状を治すためには精神科医としての技術が必要なのです。さらにはこれらを短い外来診療の中で行うことはそれほど簡単ではありません。「あっ、寝れないのね、じゃあ、この薬出しとくね」という流れが単純に楽なのです。薬を出すと、それ以上はその症状について話をせずに済みます。

僕は「症状一つに薬一つ」という治療を完全否定はしません。たとえば幻聴や妄想、患者さん本人ではコントロール不能な気分の起伏の症状には薬がやはり一番効果的です。僕もそのときはまずは薬物療法です。実は僕は精神科医になってすぐのころに薬をできるだけ出したくない気持ちが強すぎて、症状から何とか治療法を探そうと、無駄に患者さんの症状を長引かせてしまったことがありました。追い込まれたのちに薬を出した途端、その患者さんの症状が消えたのです。その時は本当に申し訳ないことをしたなと思いました。なので精神科では薬が第一選択ということがやはりあります。

ただ、一番大切なことは患者さんの症状を丁寧に聞けるのか。その体力や気力が自分にあるのか。それにかかっていると思います。そこが面倒くさくなってしまうと、もう「症状一つに薬一つ」という状態に陥るわけです。精神科医として生きていく上で、患者さんの症状を丁寧に聞くという姿勢はいつまでも持っていたいと思っています。

2014年3月20日木曜日

家と社会のギャップが大きすぎると子どもはだめになる

「子どもは外ではストレスが多いから、家ではストレスがないようにしてきました」

みなさんはこの言葉、どう考えられますか?

こんな言葉を口にされる親御さんに年間5人は出会う気がします。

親御さんによると外でストレスが多いので、家でストレスがないように好き放題させるという意味のようです。

外に出てストレスが多いというのは社会で生きていくためには当たり前のことです。それは子どもも大人も変わりません。そのストレスがかわいそうだというので、家では自由奔放。子どもの考え方の基本は家庭から生まれます。その基本を学ぶところである家で自由奔放だとすると、外に出た時に子どもはどうなるのか。少なくとも他の子たちと合わせて行こうとは思わないでしょう。たとえ表面的に合わせていたとしても、それはいずれ家での形で表面化します。なぜなら家で通用する自由が外では通じないわけですから。

僕は家と社会でのギャップが大きすぎると子どもはだめになると思っています。家は社会に出る前の予行演習をするところです。家で上手に箸を使えない子が外に出て急に箸を上手に使うわけはありません。家であいさつを教えられていない子が外であいさつができるわけがありません。家で暴言が出る子は外でも暴言が簡単に出ます。家の中でリラックスすることと、好き放題することとは違います。ご両親のこれまでの常識に従って、家と社会でのギャップが大きすぎないように家でもルールをしっかり作ってください。

そのルールの作り方は簡単です。そのルールをもって、外に出た時に、その子が外でも通用するかどうか。それだけがポイントです。

2014年3月16日日曜日

不登校が遷延化する理由

不登校は児童精神科外来で最多と言えるほど、よく出会う問題です。多数の不登校の子たちに出会うと、長い間学校に行けていない子たちの共通点が見えてきます。

当初は何か問題があって不登校という状態になりますが、それを不憫に思ったお母さんが子どもにきつく言えなくなってしまうことで、本人が学校に行く努力をしなくなる。そうすると行けない状態が続くことになります。それでいて、家では楽しそうに夜中までゲームをして、朝に起きない、昼から起きてきて、またゲーム。週末には遊びに行けてしまう。はじめは「嫌なことがあったんだから」と自分を納得させていたお母さんが家で1日ゲームをしてるわが子をみてついには堪忍袋の緒が切れる。そうすると、子どもは「お母さんは私の気持ちを分かっていない」と激情するか、痛いところを突かれてしんどそうにするかのどちらかになる。そうなると、お母さんはきつく言い過ぎたとまたやさしくなる。こんなからくりで不登校が遷延化します。

このときに大切なのは子どもが何らかの心の傷を持ちながらも、徐々に普段の本人の姿に戻ってきていることに気付けているかです。そのためには元気な時の本人の姿、今の本人の姿をどこまで観察できているかです。そして本人の背中をどこで押すべきなのかを判断できる視点がなくてはなりません。不登校はいずれにしても、必ず本人ががんばらないといけない瞬間が来ます。そこから目をそらすと不登校のままです。

どこで背中を押すべきなのか。診療の中でそれを一緒に考えられたらいいなと思います。

2014年3月14日金曜日

自分に足りないところを埋める

僕は自分が空いた時間にため込んだ本を読む、録画でためた番組を見る、運動をします。

20代のいつの日からか、そうなって、自分でもなんでそんなにも追い立てられるようにいろんなことをしようとしているのか不思議でした。その理由がここ最近、少しわかるようになりました。

僕は自分にはいろんなものが足りないから、それを埋めたくて生きている気がします。遠くの目標をそれほど意識してるわけでもありません(もっと意識できたら変わるのかもしれませんが(笑))。ただ足りないから、知らないことが多すぎるから。世の中のことすべてを経験することができるわけもないのに。僕がまだまだ若すぎて、欲張ってしまうのかもしれません。

新しいこと、自分の知らないこと、やったことがこと。それらの中で自分がうっすらでも興味が持てれば、自分の時間と気力に合わせて、とりあえずはやってみることにしています。

昔、先輩の先生に言われたことがあります。「僕は30代までにためた貯金で、40代以降は生きている。だから宋先生は今はがむしゃらにやらないと。」と、その先生のご経験をお話しいただいたことは、僕の心の中に強く残りました。

もちろん僕の性格もあると思います。ただ漫然と生きるということが苦手です。何もせず日曜日の夕方を迎えると、無性に虚しさがこみ上げてきます。そんな日があってもいいじゃないかという自分を諭す言葉も頭に浮かぶのですが、やっぱり嫌になってしまう。

努力を続けることは一つの才能であるという言葉を聞いたことがあります。僕には特別な才能がないので、せめて努力を続けることができる才能があると信じて生きていきたいです。


2014年3月11日火曜日

最後の山上敏子先生の外来授業

今日も福岡に来ました。今月で山上敏子先生が一旦臨床からは離れられるとのことで、今日で僕の山上敏子先生の外来授業は最後です。

2年前の2月に山上先生の行動療法のご著書に出会い、頭の中に電気が走るくらいの衝撃を受けました。そして翌月の3月に大阪に来られた山上先生の講演をお聴きし、まずは一度外来の見学をさせてもらいたいと思い、講演の1週間後には先生のいらっしゃる病院に電話しました。講演会で僕は質問しましたが、先生が僕のことを覚えてらっしゃるわけもありません。電話口で「ぜひ一度外来を見学させてください」とお話しすると、「そんなの意味ないからやめときなさい」とぴしっと言われました。でもその時の僕は自分に武器となるものが何もなかったので、そこで引き下がるわけにはいきませんでした。なんとしても自分にはこの技術が必要だと思いました。押し問答を15分ばかりしたでしょうか。先生も外来の時間が迫っていたことも幸いしてか「じゃあ、とりあえず来る?」と言われ、4月に初めてお伺いしました。実際にお会いすると、大阪から来たことも手伝ってかすごく優しく接してくださり、「何でも質問しなさい」とのお言葉。目の前で外来を見学させていただくことでご著書や講演でのお話の意味が自分の中に浸透してくることを感じました。1回目の外来見学が終わった後、「来月も見学に来させていただいても大丈夫でしょうか?」という僕に、「えっ?来月も来るの?」みたいな表情をされたことを思い出します^^

それからほぼ毎月福岡に通いました。1年が過ぎたころから僕の中では福岡のおばあちゃんに会いに行く感覚でした(失礼すぎて山上先生にはお話できていません(笑))。あれからちょうど2年。その間、診療の中で何度も思いましたが、もし山上先生に出会えていなければ、僕は今の患者さんの半分以上はどうしていいのか、検討さえ立てられなかったと思います。治療の糸口を探す灯りになってくれるのが山上先生から学んだことであり、「このとき、山上先生ならおそらくこうするだろうな」と思いながら診療しています。そのすごさを一言でいうとすれば、「どんな患者さんが来てもとりあえず何となく道筋が見えてくる」ところなんです。精神科外来に来られる方々は本当に多様な訴えを持たれています。その時に道筋が見えるかどうかは当たり前ですが、生命線です。

今日は山上先生に最後の質問をしました。「50年以上も臨床を続けられる秘訣は何ですか?」。「生活のため、生きていくため」とのお答え。何か特別な答えを期待していた自分が恥ずかしくなりました。

山上先生には何物にも代えがたい精神科医として武器をいただいたと思っています。この感謝の気持ちを今の僕の乏しいボキャブラリーでは表現できません。この感謝の気持ちを忘れずに、もっと勉強して、山上先生が常におっしゃる自分なりの治療法を確立したいと考えています。

2014年3月7日金曜日

開業して7か月が過ぎて

2013年8月6日に開業して、7か月が過ぎました。猛暑の中、開業準備をして、診療が始まって、気付けば梅が咲く季節になりました。開業してすぐのころは(今もですが(笑))、目の前の患者さんを取りこぼしなく、続けて診療できるよう気を配っていた気がします。

社会で生きていくことは基本的には自分を殺すこと。これを地で行く姿勢であったと今振り返っています。どんな患者さんが来ても、基本的には自分がまずは受け止める。そして初診後に僕と患者さんの折り合いがつかなくても2回目以降の診察に可能性を残したい。もちろん勤務医時代にも意識していたことではありますが、開業してからのこのことはある意味、大きな発見でした。このことから学んだのは、自分と考えが離れている人でも話をする中で治療の糸口や考えの一致を見ることがあるということです。そのことで、実際に治療が好転することがあります。我慢したほうが勝つみたいな。

ただ、今は取りこぼしなくという考え方はなくなりました。一般的に言われる「万人に好かれることはありえない」というのと同じで、すべての患者さんに満足してもらえるわけではありません。恥ずかしながら、そんな当たり前のことに気付くのに半年もかかった気がします。

開業から7か月が過ぎた今思うのは、僕の今のできる範囲で、治せる人を確実に治していきたいということです。こう結論付けるといつもと何も変わりませんが、自分の中での変化であったと思い、綴ってみました。



2014年3月4日火曜日

自分のことをわかってほしい

人は誰しも自分のことをわかってほしいと思っているものです。自分はこんなにがんばってきた、こんなに辛い、こんなに幸せなんだと自分が感じていることに対して共感を求めたくなる。これは人として至極当然の感情でしょう。だから人は他人の話を聴くのが苦手だったり、ついつい話すぎてしまうわけです。今、FacebookやTwitterが流行るのは自分のことをわかってほしいという人の心理をうまくついたものでしょう。

当たり前ですが、外来にも自分のことをわかってほしいという方が大勢来られます。そのわかってほしいという気持ちが強すぎて、社会でうまくいかないこともあります。人間なら誰しも持っているとはいえ、多くの場合、話題や相手を見ながら、それを自制しながら生きています。それが自制できないくらいの理由があるのだろうと僕は考えてきました。

どうしてこんなにも自分をわかってほしいというのが全面に出てしまうのか。その理由を考えた時、それまでのその人の人生の中で自分のことをわかってくれたという経験があまりにも乏しいからなのではないかと考えました。そのわかってもらう経験ができる最も大きな対象は親でしょう。子どものころに自分なりの何か辛い体験をしたときに親にわかってもらえるのかが、大きな分かれ道な気がします。基本的に子どもたちは親にわかってもらえると信じています。そこでわかってもらえないことが重なっていくと、他にわかってもらえる対象を探すようになり、それが友達、学校の先生、親せきの人など身近な人になっていく。それでも難しいと、自分の心を守るために誰に対しても他罰的にならざるを得なくなり、それをしたあとに自己嫌悪に陥り、自傷的にもなるのでしょう。

幼いころから、わかってもらえているという経験をさせてあげることが大人になって社会で生きていくには必要なのだと思います。ただ、わかろうとしすぎて子どもの言うことをすべて聞いてしまったり、親子間でルールがなくなってしまうことだけは避けたいですね。

2014年3月1日土曜日

子どもには荷が重すぎる

先日の映像‘14「ここにおいでよ~居場所を失った10代のために」を見ました。この番組は関西ローカルのドキュメンタリー番組です。

大阪にある公立高校の中に大阪府の委託を受けて子どもたちの居場所「となりカフェ」ができたそうです。ここに通う高校生たちが放課後に担当の相談員の方に話を聞いてもらう、友達同士で話し合うための場所です。つまり居場所のない子どもたちの集まる場です。そこは学校でも家でもない居場所なのです。

親がいない、生活費がない、学費がないから進学できない。バイトがしたいとスーパーの面接を受けたら保証人が必要なので、親に頼んだらそれを拒否された子。となりカフェに来て、相談員の先生の前で声を上げておいおい泣いてました。そこで相談員の先生がバイトの保証人になってあげていたんです。

またある子の言葉。「人生いろいろありすぎ」。中年の大人の言葉ではありません。10代の台詞なんです。

大人でも辛いことなのに、10代の肩にはあまりにも重すぎるものがかかっていることを感じました。これまで子ども家庭センター(児童相談所)、特別支援学校、乳児院、児童養護施設で厳しい境遇の子どもたちに会ったり、その子たちの話を聞いてきたはずなのに、改めてその厳しさを感じました。

冷めきった目。無気力な表情。「別に夢なんか持ったことない」。子どもでいたくてもいられない、早熟せざるを得ない理由がそこにはありました。早く大人にならないと、冷めた自分にならないと自分の心が守れない。

もうこうなると治療とかいうものではなくて、支えることが大切になってきます。一般的によく言われることですが、学校、医療、行政、福祉、民間のネットワークなど、あらゆるものが必要になる。外来でいくら僕らが診療しても、そんなものはほとんど役に立ちません。なぜなら彼らは目の前の「生きていくこと」に困っているわけですから。

僕が今、子ども家庭センター、児童養護施設、支援学校に行きたいと思う理由は外来では見えない世界が必ずあると思っているからです。自分が出会えていない子どもたちがいるはず。外来に来る子たちはごく一部です。いろんな事情から外来にさえ来れない子たちがいる。児童精神科医としてもそうですが、一人の人間として、自分に何ができるのか、長期的に続けていけるものは何か、じっくりと時間をかけて見つけられたらと思っています。


2014年2月25日火曜日

退屈な時間を作る

最近は後部座席にテレビを設置している車を見ることが増えました。診察室に来る子どもたちも小学生以下なら半分近くの子が片手にゲームを持っています。診察中に平然とゲームを始める子どもたち。単にゲーム批判をしたいわけではありません。

家ではテレビとゲーム、外に出てもゲーム、外食中も箸だけ動かして、家族の顔は見ずに下を向いてゲーム。片時も暇な時間を持たないその光景は異様にさえ見えます。確かに子どもたちは退屈な時間が苦手ですから、子どもたちを静かにさせるには最高に効率のいい方法でしょう。

僕は子どもたちにとって退屈な時間は大切な時間だと思っています。何をしていいのかわからなくなった時に、子どもたちは初めて物を考えます。次に何をしようか、自分が何をしたいのか、今日あったこと、明日の予定のことなど、思考の回路が回り始めるわけです。周囲にいる友達と会話を始めることもあるでしょう。会話とは思考することです。それがテレビやゲームで次々と新しい刺激を機械から与えられる状況というのは自分で物を考える時間を奪います。

子どもたちに学校は楽しい?と聞くと、半分以上が「びみょう」、「ふつう」という答えが返ってきます。その時に僕は「学校がびみょうっていうのはどういうこと?」と聞きます。そうすると、「わからない」となることがほとんどです。つまり普段から決まった語彙だけを会話で使い、考えるという動作を頭の中でしていないため、とっさの質問に返答できない。これは大人も同じです。話がおもしろい人とおもしろくない人がいます。その2つを大きく分けるのは普段物を考えているかです。つまり物を考えていないと一つの話題が出てきたときにとっさに話ができません。

物を考えるためにはそのための時間が必要でしょう。そのためには本を読む、人と会話する、仕事をする、何かの体験をするなど様々でしょう。思考は筋力と同じです。普段、足の筋肉を使っているから歩けるわけで、使っていないと人は歩けなくなります。普段思考していないと、思考したくてもできません。どう思考していいのかわからないからです。

子どもたちに敢えて退屈な時間を作ってあげてください。車の中で車窓から見える景色を見ながら、子どもたちは自分なりにいろんなことを考えるはずです。

2014年2月22日土曜日

はじめから個性なんてない

どんな子にも誰にも負けない個性や能力があるから、それを見つけてあげようというような風潮。世界に一つだけの~みたいな歌もありましたね。この歌が時代を象徴してる気さえします。

その影響か、「自分にはこの仕事は合わない」、「自分に合う仕事を見つけたい」、「今の会社に自分のしたいことはない」、そんなことを真剣に語る10代、20代の方に出会います。人ってはじめから個性や適性なんてあるのでしょうか?個性を強調する風潮を見てずっと疑問でした。少なくとも僕はそんな特別な個性や能力を自分の中に感じたことはありませんし、僕の知人を見渡しても幼いころからの個性や能力を生かして生きている人なんてほとんど見たこともありません。誰にでももともとの個性がある。ただ耳触りのいい幻想だと思います。

ビート武さんがある番組で「子どもたちには個性がなくてもいいんだという教育をしたほうがいい」と話しておられました。けだし名言です。個性がなくてもちゃんと生きていけるという話を子どもたちにしてあげることが本当の意味で子どもたちのためになるのではないでしょうか。その個性の存在を信じるあまり、自分の個性を探すことに時間と労力を消費したり、何かを諦めるときの言い訳になってしまう。

僕は個性というのはある物事を続けていく長い時間の中でようやく見つかればラッキーかなくらいのものだと思っています。むしろ、はじめは自分には個性や特殊な能力はないのだという認識から始めるくらいがちょうどいい。

果たして世の中の大人の中で自分の個性に合った仕事をできている人がどれくらいいるのでしょうか?それを10代や20代で見つけられる人なんてかなり特殊な人たちです。自分の個性探しで彷徨する暇があるなら、とりあえずご飯を食べていく方法を探したほうがいい。自分の個性や能力を探すなとは言いません。むしろ自分が何に向いているのか、何をすれば他の人に負けずに生き残れるのか探すことは人生において最重要事項でしょう。それをせずに漫然と生きている人は嫌な仕事だけして一生を終えます。なので自分には何が向いているのかを常に自問しながら、生きていくための仕事を続けるわけです。そしてこれだと思うものに出会えた時に方向を大きく変えればいい。

働きながら、自分の個性を模索してください。

僕の好きな言葉ですが、「考えてから動くのではなくて、動きながら考える」。

大切だと思います。

2014年2月19日水曜日

病気のことは患者さんが教えてくれる

病気のことは教科書、論文、偉い先生から教えてもらうことはもちろんたくさんあります。その中にはこれまでの歴史的な知識の蓄積があります。医者としてすごく助かります。でもそれ以上に病気のこと、症状のことを教えてくれるのは患者さんなのだと考えています。

うつ症状を持った会社員の患者さんに出会いました。朝に会社に行かないといけないのに起きれない、動く気がしない、いつまでもごろごろしたい、好きなテレビを見る気がしない、お腹がすかない。この時、ああこういうのをうつ症状というのだと思ったことを覚えています。

摂食障害のお子さんに出会いました。もう自分でもやめたいのに拒食や運動をやめられない。誰がどう見てもやせが激しいのに「私はお姉ちゃんよりも太い」と涙を流しながら話す。

強迫性障害の手洗いの激しさ、統合失調症の被害妄想、パニック障害の電車の中での辛さ、躁状態の多弁さ、アスペルガーやADHDの人の会社での辛さ、リストカットや大量服薬をするときの気持ち、親に包丁をむけられたときの気持ち、覚せい剤をやめられない辛さ、抗うつ薬の効果を感じる瞬間。みなさん、僕に自分の症状を伝えようと必死に、そして赤裸々に話してくれます。誤解を恐れず言えば、この瞬間が僕にとっての最高の勉強。まるで知識のシャワーです。このときにその人の状態を徹底的に頭に入れて、治療の方法を考えたり、同様の症状を持った人が来られたら、頭の中で以前に診た患者さんの症状や話されていた悩みを引っ張り出してくる。こんな目に見えない頭の中での蓄積を重ねていくことが医者の技術や技量を高めるものだと信じています。もちろん、これはどの仕事でも同じでしょう。

患者さんは最高の師匠。

変な話かもしれませんが、これからも患者さんにたくさんのことを教えてもらうつもりで診療を続けていきたいです。

2014年2月16日日曜日

生きていることに虚しさを感じている人へ

自分はなぜこの世に存在してるんだろう、生きてる意味があるのかな。

こんな空虚感をもって生きている人が外来に訪れます。うつ病、適応障害、人格障害など病名はいろいろつくかもしれない。その年齢層は小学生から大人まで。その人たちに共通していると感じるのは「生き疲れた」ということ。生まれつき空虚感を持っている人はいないと思います。さまざまなことがあって、それに対して自分なりに今の環境の中で生き残るために頑張ってきたけど、それでもだめで、もうだめかなと思っている。

この場合、まずはうつ病の治療(薬、休息)は大切でしょう。でもうつ病の治療として薬を服用したり、休息してもこの空虚感は完全にはなくなりません。そしたら、こんな患者さんに出会った時に僕ができることは何かなと診察室の中で必死に考えて、思いついた一つの作戦が「何か小さなものでもいいので目標を持ってもらうこと」です。ご本人なりの達成感を感じることができそうな目標。その目標をとりあえずは暗闇の人生を歩くときの灯りにしてもらう。そうして歩いていると、思いがけない生き甲斐や生きる目的を見つけられることがあります。その生き甲斐を見つけられたらこっちのものです。

小さな目標が見つからない人、見つける気がしない人には僭越ながら僕が一緒に考えられたらと思います。

2014年2月13日木曜日

その病気になったことがないのに気持ちがわかるの?

「先生はこの病気になったことがありますか?」

患者さんに聞かれることがあります。この時僕は「なったことはありません」と素直に認めるようにしています。それ以上何も言いませんし、無駄な抵抗はしません。

実際のところ、この問へは医者になってから僕自身、自問自答してきました。僕はその病気になったことがないのに自分には何がわかるんだろう。これまた、自分がいやになる瞬間です。でも病気の人に対峙して、治療していくのが僕の仕事です。しかも自分が経験したことがないのに知ってるふりをすることは嫌いですし、自分が患者さんの気持ちを100%は理解できていないという姿勢から治療は始まると思っています。そしたら自分はどうしたらいいのか。

今現時点で僕が思う結論が2つあります。

1つは医者は基本的には健康であることが大切だということです。
たとえば、僕があらゆる精神疾患の経験があるとします(現実的には困難ですが)。そうすると患者さんの気持ちがわかってよく治療ができるのか。もちろん気持ちに共感しやすいというのは大きな武器です。でもよく考えてみたら、そもそも患者さんはそんな健康でない医者に診てもらいたいと思うでしょうか。この世に全く健康体な人は僕はいないと思っています。ただ、大きな問題を抱えた患者さんに対峙して、治療するためには基本的に心身ともにある程度自分が健康でないと立ち向かえません。

もう1つは患者さんの気持ちがわかることと、治療できることは違うと考えています。
気持ちがわかって「そうですよねー」としみじみ自分の経験と突き合わせていくことはできるでしょう。ただいくら共感ができても治せるとは限りません。やはり患者さんを治すには技術というものが必要だと思うからです。いつも言うことですが、精神科医は単に人生経験が豊富な町のおばちゃん(僕はおっちゃんですが(笑))ではいけないと思っています。患者さんに自分の人生論をいくら披露しても治療はできません。

この2つのことから自分の健康を維持しながら、精神療法の技術を向上させることが今の自分にできることではないかと考えています。

2014年2月12日水曜日

アスペルガーとADHDの見分け方

同じことをいつも忘れる、話し出すと止まらない、会話に割り込む、なれなれしい、懲りない、落ち着きがない、空気が読めない、すぐに手が出てしまう、興味があるものが目に入ると走っていく。

不注意、多動性、衝動性などという用語で説明できるものばかりです。

これらはすべて自閉症スペクトラム(Autistic Spectrum Disorder: ASD、アスペルガー障害や広汎性発達障害が含まれます)、ADHDにみられる症状です。さらに自閉症スペクトラム(ASD)とADHDは合併することが多いといわれています。そうなってくるとこの2つの見分け方はかなり困難になります。しかもこの2つを見分けることで、精神療法、薬物療法ともに治療の方向は変わってきます。

先日、京都大学精神科の十一先生の講演をお聴きしてきました。そこでこの2つの見分け方について教えていただきました。

自閉症スペクトラム(ASD)の特徴は大きく2つです。

・他者と自然に反応、呼応しあう能力の障害
・一定不変であることへのこだわり

ADHDの人は他者と呼応しあう、つまり相手の気持ちを慮ることはできますし、一定不変へのこだわりはありません。ただ、ADHDの人はその瞬間は自分の気持ちを抑えられずにし、してしまった後に後悔することが多いような気がします。自閉症スペクトラム(ASD)を軸として考えるとADHDとの見分けがしやすいのです。

改めて勉強になったので今日は書いてみました。

2014年2月7日金曜日

報われない努力もある

為せば成る、努力は報われる。

一般的にこの言葉は努力すればいい結果が生まれるという、人々を励ましてくれる言葉です。僕もこの言葉を信じて生きてきましたし、今も信じています。

最近、曽野綾子さんの本を読みました。その中で「努力は報われないこともあり、途中で諦めるということを道徳的に許さないこの時代はおかしい」と指摘されていました。また「諦めがつけば人の心にはしばしば思いもしなかった平安が訪れる。諦めることも一つの成熟なのだ。」とも。

人は生きている中で努力しても結果が出ずに、途中であきらめないといけないことに遭遇することは多々あるはずです。部活をやめること、学校をやめること、会社を辞めること、事業を閉じること、離婚することなど。自分は今まで頑張ってきたのだから、頑張れば結果が出るはずだとなかなか諦められない。その時に道徳的に諦めてはいけないということを忠実に守るとすれば、多大なストレスがかかるわけです。それではどう判断すればいいのか。それは諦めないことを続けたとして、自分の心身の健康が保たれるのかで判断するべきでしょう。根性論や精神論を全否定する気はありません。むしろ「努力は報われないこともある」とは努力していることが前提です。でも一つのことにぶつかって、自分の心が壊れてはいけないわけです。そのあとも人生は続くのですから。

報われない努力もある。この言葉を頭の片隅に置いていれば心を軽くして生きられるのかなと思います。


2014年2月4日火曜日

自分の中にはきれいな自分と汚い自分がいる

児童精神科医としてホッとするときの一つとして、子どもたちのきらきらしたきれいな心に触れるときがあります。幼稚園で暴れる子も「友達を叩いたらだめだよ」とこちらが真剣に話すと神妙な顔をして聞いてくれたり、はじめはふてくされた顔の高校生も診察が終わるころには「また来る」と言ってくれる(ごくたまに厳しい環境で育った子で全く通用しない子もいます)。なんかうれしくなって、ホッとしちゃいます。

こんなきれいな心に触れていると僕自身、自分を侮蔑したくなったり、これでいいのかなと悩むことがあります。でもこれって、この世の中を生きていく上で人なら誰しもあることだと思うのです。特に正義感の強い思春期くらいまでの子どもたちは自分がした悪いことを心の中に持ち続けて悩んでいることが多いような気がします。これは思春期でなくても大人にも言えることでしょう。どんな人でも正義感は持っています。その正義感に照らし合わせて自分がしたことを責めてしまう。この時にはきれいな自分も汚い自分も両方ともが自分であることを認めることが、生きていく上で大切だと思うのです。完全無欠な人なんていないでしょうし、仮にそんな人がいたとしたら、誰からも興味をもってもらえなくなるでしょう。なぜならそんな人は面白くもなんともないから。自分に弱点があることを認めて、それを人に話すことで、他の人たちは自分に興味を持ってくれます。そうすると自分が楽になる上に他の人との関係もよくなる。

とどのつまりが肩の力を抜くこと。頑なにならないこと。大切だなとしみじみ思います。

2014年2月2日日曜日

仕事の理想をはっきりさせる

最近、読んだ新聞記事に今の自分の気持ちをあまりにも正確に表現してくれている言葉があったので、ブログに書いてみたいと思います。

その記事に出てくる方は元麻布で日本料理店をされている神田裕行さん。ミシュラン三ツ星レストランだそうです。もちろんミシュランの三ツ星がすごいのではありません(他人の主観で星がいくつだとか、その評価自体まったく重要ではありません)。以下は神田さんの言葉です。

・私は自分にとって理想の日本料理を突き詰めるプロセスで悩みましたが、あなたにも思い描く仕事の理想をはっきりさせていくようにとお伝えしたい。簡単ではないかもしれませんが、「何か違う」という違和感を切り捨てないで、それでも基本となる大切な知識や技術を磨き続けてください。

・気づいたこと、やらなければいけないと思ったことはすぐにやることを習慣にしていってほしい。

・ちょっときついけれど、いいとわかっている「右」へ常に振っていく気持ちの強さが結果的にはあなたの仕事を大きく違う場所に導くのですね。

この言葉たちは僕の脳天を上からまともに刺激してくれたと感じました。
 
まずは自分にとっての理想について。自分にとっての理想は無意識には考えています。診療をしながら「何か違う」という違和感も自分で感じている。でもそれをはっきりさせるためにはそれを立ち止まってゆっくり思考する時間、そしてそれを自分の目に見えるようにはっきりさせたいという気持ちが必要だと思います。日々の診療に忙殺されて、自分ができていないことに真摯に向き合う時間を持たなくてはならないと感じました。患者さん一人一人を診療する中で、自分の中にわいてくる違和感、疑問点、自分に足りない部分に向き合わないといけない。
 
そして気付いたこと、やらないといけないと思った勉強、作業、思考について、すぐにやっていきたいです。

ちょっときついけれどいいことだとわかっている、それをやるのかについて。いいとわかっていて面倒くさいからしないことはみんなにあると思います。でもそれに打ち勝ってやり続けることをしないと成長はないのだと改めて感じました。

まだまだ僕は仕事の理想を見つけることができていません。そのフォーカスをはっきりさせるために、仕事に対する自分の違和感の一つ一つを大切にして、いいとわかっているちょっときついことに挑戦し続けたいと思います。

今日は僕の誓いを表明する文になってしまいました。失礼いたしました。

2014年1月30日木曜日

「患者さんの笑顔が見たいから」という言葉

「患者さんの笑顔が見たいから」

どこかでよく聞くフレーズですよね。よく医療者は患者さんの笑顔を見ると幸せを感じるという話も聞きます。僕はこれについては何となく聞き流していましたが、自分に当てはめて考えると少し違うなと感じています。患者さんの状態がよくなったり、喜んでもらえると確かに嬉しくはなりますが、それが直接自分の幸せまでとはいきません。僕は幸せを感じるというよりも、内心ほっとするというのが本心です。患者さんが何らかの症状や問題を抱えられていて、それに自分が答えらるのかというプレッシャーを常に感じます。患者さんからの場合もありますが、どちらかというと自分から自分へのプレッシャーが強いですね。結果を出さないといけない。

特に開業医になった僕は患者さんによくなってもらえないと、その患者さんは来られなくなります。しかも精神科の治療は僕にとっては正直難しいです。まさに難問を与えられてる受験生と同じです。診察室の中で必死に考えて、ようやく治療につながるかどうかという程度です。なので、患者さんがよくなられると嬉しさもありますが、ほっとします。「僕はちゃんとニーズに答えられたんだな。あーよかった。」と胸をなでおろすわけです。そしてその日の診療が終わって、一息ついた時に充実感が自分の中にわいてきます。でも翌日にはそんなことは忘れて、また新たな難問に挑戦する。そんな日々の繰り返しです。

良くなられた患者さんのことよりも治せなかった患者さんのことをよく覚えているものです。自分はちゃんとニーズに答えられなかった、治せなかったんだなと。そう考えると悔しい思いをすることばかりです。そんな僕自身を奮い立たせるためにイチロー選手が日米通算4000本安打を達成した時の言葉を思い出したので、今日は最後にその言葉を載せたいと思います^^

「いい結果を生んできたことを誇れる自分では別にないんですよね。誇れることがあるとすると4000回のヒットを打つには僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね。」

2014年1月29日水曜日

知的障害の親の会で講演しました

今日は知的障害の親の会からお話をいただいて、講演させていただきました。

僭越ながらご依頼いただいた僕の治療への想いをお話ししました。今日の講演の準備をしながら、自分は何を思って仕事をしているのかを改めて自問してみました。結局のところ、僕は自分が幸せを感じるために仕事をしているのだなと気づきました。僕が幸せを感じるために必要な条件は①自分が成長していると実感できること、②誰かの役に立ってるということです。この2つを満たすために今の自分ができて、しかもしっかりとパフォーマンスを出せること。それは患者さんを治すための技術を身に着けて、患者さんによくなってもらう。これだとこの2つの条件を満たします。だから、患者さんを治すといいながら、結局は自分のためなんですよね。何も崇高な思いはありません。やっぱり生きてるんだから、幸せを感じていたい。ただそれだけです。

今日お話を聴いていただいたお母さん方の何かのお役にたてれば、僕はまた幸せを感じることができます^^講演の機会をいただき、、ありがとうございました。

2014年1月26日日曜日

患者さんが心を開くこと

「ここでは何でも話していいんだよ、先生が全部聞いてくれるから」

親御さんが子どもさんを連れて来られてよくおっしゃる言葉です。患者さん本人の気持ちを半ば強制的に話させようとするこの言葉。僕の中で、この言葉はかなり違和感のある言葉です。初めて会う大人に小さな子供がいきなり自分の本心を語ることはないということは以前に書きました。さらに僕の素朴な疑問として子どもでも大人でも診療の中で心を開くということが本当に治療になるのかということです(特に重症になればなるほど)。

確かに、安心や信頼がないと人は自分の本心を語りません。なので僕は患者さんに安心感や信頼感を持っていただけるよう丁寧に接することを心掛けています(しかも安心感や信頼感もゆっくり得られるのが普通です)。でも安心や信頼と心を開くということは違う気がするのです。心を開くということは自分の辛い体験を話すことになるわけです。僕は医者なので、患者さんの症状をよくすることが仕事です。辛い体験をお聴きするだけで症状がよくなる人もいますが、それは軽症の場合に多い気がします。辛い体験をご自身で話してもらうと、症状の話からは離れてしまい、感情が噴き出します。そしてその後にトラウマの再体験、つまりフラッシュバックのように状態が悪くなる方がおられます。つまり治療をしないといけないのに、涙が止まらないまま終わってしまったり、診察後に状態が診察前よりも悪くなって、「僕は何をしてるんだ」みたいに感じることも多々あります。

少なくとも子どもであれ、大人であれ、無理やり心を開かせようとするのはまずいなと感じています。治療するためには涙であふれたままで診療時間が終わってしまうというのはある意味危険です。状態が悪いままで帰宅してもらうことになるわけです。一番よくない例は重いトラウマ体験がある場合です。それは学校での激しいいじめもしかりです。治療するために経過や症状をお聴きする中で心が開かれて、感情が噴き出してしまうなら、症状を聴けているので治療につながるでしょう。でも辛い体験を語ってるうちに、会話にならないことがあります。そうなると治療ではなく、近所のおばちゃんの人生相談に終わってしまいます。単に吐き出してもらって終わり。それですっきりしましたとなる人もいるでしょう。でも重症になればなるほど、心を開いてもらうことには慎重にならなくてはなりません。だから精神科医の間ではトラウマの治療は慎重にしなくてはいけないとされています。何でもかんでも心を開けばいいってもんじゃない。僕は治療する医者です。症状があるなら、それをよくする方法を考えなくてはいけません。

僕はいたずらに患者さんの心を無理に開かせようとしませんし、患者さんも無理に「ここではすべて話さないと」と思う必要はないと思います。患者さんの人生や辛い部分を語ることが必ずしも治療につながらないからです。大切なのは治療につながるのかどうかです。

患者さんに心を開くなとは言いません。ただ、僕は丁寧に症状をお聴きして、それが治療につながり、結果的に心を開く。そしてそのころには状態が少しでもよくなってくれていることが理想です。なぜなら人は状態がよくなってくると自分の辛い体験も冷静に語ることができるようになるからです。なので心を開かせることは結果であって、まずは状態を少しでもよくすることが大切なのです。


2014年1月24日金曜日

子どもに強く言っていいのでしょうか

子どもにどこまで注意していいのか、叱っていいのか。

「子どもに強く言っていいのでしょうか?」

本当によくお聴きする悩みです。

まず、うつ病や適応障害などの精神疾患の場合にはどう接していくかは主治医と相談されながら具体的に決めることが原則です。

それではそうでない場合はどうするのか。僕の印象では子どもに強く言えないという悩みを持たれている方は子どもが幼い時から強く言わないようにされている方が多いようです(精神疾患が途中で始まった場合は別です)。子どもが何かで辛そうにしているとき、かわいそうになって、やさしい声で話しかけて、本人が望むことをかなえてあげたくなってしまう。これは普通の親心でしょう。誰も子どもが辛そうにしている姿を見たくはありません。僕も子供が熱を出しているとき、学校でショックなことがあって元気がないとき、どうしたのかと聞きますし、辛そうにしている姿を見たら何でもしてあげたくなります。この時に何をどこまでしてあげるのか。

その判断をする場合に必要なのはこの2つです。

1.普段の子どもの観察
2.どんな時も善悪の区別をつける

1は辛いことがあっても、どの程度まで改善してきているのか、あるいはまだしんどそうなのか。その判断は普段からしっかり観察していれば、たまに会う医者よりも親のほうがよほど感じることができます。

2は1での観察をもとに、家の中でもいいこと、悪いことの区別をつけていくという原則を崩さないことです。本人がしんどそうにしているからと、横柄な態度、暴言などを許容すると、しんどいときは何をしてもいいという流れが生まれます。さらに言うならうつ病の子どもは親に暴力を振るっていいのかということです。暴力は立派な傷害罪です。それは子どもが悪いというよりはそれを許容しているこちら側に問題があるわけです。

ここで大切なことはどこまで受容するのかを初めから親が決めておくことです。しんどそうにしているからと小さな許容を重ねていくと、少しずつ間口を広げるように子どもたちはここまでは許されるだろうとエスカレートしていきます。その間に子どもたちは体が大きくなり、知恵がついてきます。もうここで限界だと親として我慢できなくなったときに親もきれてしまう。そうなると子どもはそのころにはそれに反抗できてしまう体や知恵をもっているため、親子喧嘩は大きくなるという構図です。そうなってから児童精神科を受診される方が多いようです。でも、もうその頃には構図が固まりすぎています。

いつもお話しすることですが、子どもたちが本当の意味で人としての審判を受けるのは大人になって社会に出てからです。学校というところにいる限りは学費を払っているお客さんです。さらに最近はいろんな親御さんがいるため先生方も子どもたちをきつく叱れなくなってきました。でも社会人となると、今までのお客さんという立場とは反対にお金をもらう仕事人です。

家でのルールは人として生きていく上で一番初めに子どもたちが触れるルールなのです。





2014年1月22日水曜日

子育ては自分の子供時代を生きなおすこと

子どもを産み、子育てを始めると、はじめどうしていいかわからないので、人は自分の子供時代を思い出そうとします。僕もそうでした。風邪をひいて熱を出したときにおでこを触ってくれたこと、寝ている僕を父がおぶって家の階段をのぼってくれたこと、人にあいさつをしないで怒られたこと、どうやって生きていくのか考えておくように言われたこと。それとまったく同じことを僕も今自分の子どもにしています。いいことも悪いことも含めて、子育てをしながら、もう一度自分の子どもの時の体験をしています。診察の中でも自分の子供時代のお話をされる親御さんはたくさんおられます。

また子どもを産んで育てることは自分の親について考えることになります。子どもの姿を見ながら、思うのは自分が子どものころの親の気持ちです。どんな気持ちで自分を育てて、どんなことを思っていたのか。これも自分の子供時代の親の気持ちを想像することになり、自分の子供時代を生きなおすことになります。

僕は自分の子供時代を生きなおしながら、自分が受けた子育てよりもさらにいい方法はないのかと考え、自分の親の気持ちに思いをはせながら自分が親としてどうしていけばいいのかも考えてきました。

みなさんも子育てをしながら、自分の子供時代を生きなおしておられると思います。過去の自分の子供時代をやり直すことはできませんが、今、目の前にいる自分の子育てはまだやり直しがききます。一生懸命子育てをして、一人でちゃんと生きていける子供にしてあげてください。




2014年1月21日火曜日

診察の中で患者さんにどんな質問をするのか

問診の中で患者さんに何を質問するのかはその精神科医の能力を示すと考えています。これは精神科医でなくとも医師全般に言えることです。患者さんに無駄なことをたくさん聞いてしまう医師はできない医師と言えるでしょう。その質問はちゃんと治療へつながる道筋があり、治療にとって必要な情報を得るために質問しているはずです。ただ、医師の教育では初めに問診を教えますので、そこでは通り一遍のことを聞くように言われます。これは医師がやみくもに聞いてしまう原因の一つでしょう。

たとえば患者さんの訴えが不眠であればいつからなのか、思い当たるきっかけはあるのか、何時に寝て何時に起きるのか、途中で目が覚めるのか、夢をたくさん見るのか、翌日の集中力はあるのか、睡眠薬は飲んだことがあるのか、うつ病の可能性もあるから日中の気分や食欲を確認しないといけないなどなど、不眠を治療するために必要な情報を集めるわけです。このときに会社や学校のこと、家族のことなどは情報としての優先順位は後でいいわけです。これは内科の先生が腹痛を訴える人に対してどんな痛みなのか、どこが痛むのか、どんな時に痛むのか、食事はとれるのかなどを聞くことと同じです。これは弟から聞いた話ですが、できる内科医は問診だけで1時間かけるそうです。逆に、それくらい聞くことがたくさんある。ただ的外れの質問を多くしても仕方ないし、少なすぎることも逆に心配です。大切なことはちゃんと治療につながる質問になっているのかです。

僕も小児科医になりたてのとき、何をどう聞いていいのか本当に迷っていましたし、現在でもまだ質問をしながら迷うことがあります。まだまだ無駄なことを質問していることも多いと自覚しています。ただ、これからもっともっと洗練して、質問がうまくできるようになりたいです。

2014年1月18日土曜日

慢心しようがない

予備校講師の林先生の本によると東大生は「自分はあまり勉強してません」とよく言うそうです(再登場ですみません、最近読了しまして)。

恥ずかしながら、この言葉から自分自身のことを振り返ってみました。こんな自己評価の低い僕でも「お医者さんなんですね」、「韓国語を話せるんですか」、「すごいですね」みたいなことを言われることがたまにあります。それを聴いて当人の僕としては内心、褒められてるという感覚というよりは少し違和感をずっと感じてきました。「僕は本当にそんな大したものじゃないんです」と真剣に思っていますし、その時にどう反応していいのか迷っていました。これは謙遜とかそんなきれいなものではないんです。その自分の気持ちに最近、林先生のこの本で整理がつきました。なぜかというと、僕なんかよりもすごい人に日常的に(実際に、本で、テレビで)会うからなんです。その「すごい」という単語の定義は自分よりも素晴らしい人、優秀な人、器の大きい人、魅力的な人など僕がうらやましいなあと思う人です。さらに実社会で失敗しまくる自分に出会います。特に診療がうまくいかず、自分の無力さが情けなくなります。

整理すると、つまりこんな状態ではないかと思うのです。

自分よりもすごい人に会う回数+自分がだめだなと思う回数>人に褒められる回数+いい結果が出る回数

圧倒的に左側が多くて、慢心しようがない。東大生も同じなのではないかと推測します。自分より勉強している人や優秀な人が多い上に、自分がだめだなと思う回数がほめられる回数やいい結果が出る回数よりも多いのでしょう。

もし慢心してしまうとすればそれは世界が狭すぎるのか、周りが見えていないのかのどちらかではないかと思います。「慢心するな」といいますが、これでは慢心する暇がない。この世の中はうまくできてますよね。ちゃんと勝手に人を謙虚にしてくれます。だから人って努力できるんですよね。


2014年1月15日水曜日

質問をされない診察

先日のスイッチインタビューで去年大ブレイクした予備校講師の林修先生のお話を聴きました。その中で「授業は商品であり、毎年同じ質問を受けている予備校講師はダメだ」という話をされていました。林先生なら2回同じ質問をされたら、自分の授業がどこが悪かったのかを検討し、二度とその質問をされないように授業をするというのです。

これは僕の診察も同じだなと思いました。僕にとって診察は商品です。街のおばちゃんの人生相談ではいけないわけです。教科書にある専門的な知識や薬のこと以外に、話の聴き方、患者さんへの質問の仕方、声のかけ方、アドバイスの内容まで、プロにしか言えない、僕にしかできないことを提供していかないといけないと思っています。さらに理想を言えば、診察の最後まで質問のでない診察が最高なのかもしれないと思いました。患者さんの質問を予想して、それを先回りして説明を終えてしまえるような診察。もっと言えば、患者さんの想像を超えるような診察。感動させられるような診察。「こりゃすごいわ」と言ってもらえるような診察。僕らも素晴らしい料理、芸術、技術に触れた時に感動することがあるでしょう。それがプロなんじゃないかと思うんです。お客さんが予想できる範囲のことしかできないのはプロじゃない。うどん屋さんで普通の味のうどんが出てくるのは当たり前です。家庭で作れない味のうどんが出てくるからお客さんは感動してそのうどん屋さんにまた行きたいと思うわけです。

ただ実際は自分の中でもふがいない診察をしてしまうときがあります。そうなるとすごく後味が悪い。むしろ自分がこの診察は本当にうまくできたと思えるのはあまり多くないかもしれません。自分で納得できていない。正直、自分のふがいなさに悶々とします。さらに患者さんも満足して帰ってくれたのかなと不安になる。あるいは患者さんは納得してくれていても自分が納得できていなければ、それもいやです。どうしたら診察の質を高められるのかの模索を続けながら、いつの日か、自分も患者さんも満足できて、質問をされない診察ができたらと夢想しています(笑)

2014年1月13日月曜日

お金をきれいに使う

僕ははっきり言ってかなりケチな人間です(笑)子どものころは弟といるときはいつも自分が先いいものを取って、それを弟に貸さないみたいなことをしてきました。今でも無駄だと思うところにお金を使いたくはありません。

大人になりながら、いろんな人のお金の使い方を見てきました。今の時点で思うことは「ケチなことと卑しいことは違う」ということです。自分にはあまりお金を使わずに、友達のお祝いにはしっかりお金を使う人。逆に自分の楽しみや装飾にはお金を使い、他人にはお金を使わない人。他の人のお金の使い方を見ながら、ケチな僕はお金の使い方を学んだ気がします。

お金の使い方はその人の本質を表す大きな要素の一つではないかと考えています。よほど楽にお金を稼いでいたり、お金があふれている富豪は別にして、お金が生きていく上で大切なことは誰しも同じです。その金を稼ぐためにみんな必死に働く。あくまで僕の印象ですが、お金を稼ぐのに苦労している人であればあるほど、お金の使い方がきれいな人が多い気がします(または幼いころからいい意味で余裕のある生活をしてきた人もきれいなお金の使い方をする気がします)。

韓国のことわざに개같이 벌어서 정승같이 쓴다というのがあります。

犬のように汚れる仕事もいとわずに一所懸命稼いで、きれいに使うこと。「汚く稼いできれいに使う」ということです。

お金をきれいに使うことは人を美しくしてくれる気がします。ケチな僕も卑しくはなりたくないので、きれいなお金の使い方をしていきたいです^^

2014年1月12日日曜日

誰にでも物語がある

人は他人を評価するとき、一つの事象でその人を評価することが多いと思います。そのいい例が芸能人や政治家のニュースではないでしょうか。世間から見て変なことをした人はもうそれだけでダメな人、ダメな人生。逆に~賞をもらった人、すごい学歴の人は人格も人生もすごいという扱いになります(それを煽るメディアの責任もあるでしょうが)。でも果たしてそうなのかと思うのです。その事実は確かにそうなのでしょう(それが事実無根ということもありますね)。でも、近親者でもないかぎり、、その人の人格や人生まではわかりません。いや近親者でもわからないかもしれない。僕自身、自分の家族や兄弟の人となりを正確に把握しているのかと言われても、わからない部分もまだまだあると思っています。

僕は少なくとも30年以上生きている人にはそれぞれ誰にでも物語があると思っています。そして誰にでも耳を傾ける価値がある。それは平凡に見えるサラリーマンも有名人も同じです。

いろんな人の人生を聴いているうちに、いつの日からか、こう思うようになりました(それまではもちろん僕も人の評価や批判を簡単にしていました。患者さんは僕に人生を教えてくれます)。それ以降は人の評価というのを簡単にはしてはいけないという思いになり、人を評価するときにはその事実についてのみ評価し、それ以上のことは言いにくくなりました。他人の評価で盛り上がっている人を見ると辟易とすることもあります(もっと言えば、他人にそんなに興味を持つほど、ご自身の人生が暇なのか、退屈なのか、単なるストレス発散なのか、あるいはやはりその人の物語があるのかといろいろ推測してしまいます)。つまりある一事象と人格はそのままイコールにならないのに、それを人は勘違いしてしまう。さらに人は変わる可能性もあるということです。精神科で言えば、覚せい剤やアルコールの依存症の人をみて、多くの人は「どうせまたやるんでしょ」という目で見ます。でも事実、依存症を克服する人はいるわけです。なので、人の判断、評価はそんなに簡単にしてはいけないと思うのです。それをするのなら、かなり慎重に時間をかけてすべきだと思います。

誰にでも物語がある。僕はそう考えています。


2014年1月11日土曜日

考え方を柔軟にすることの大切さ

最近、よく思うことなのですが、人って自分の考え方が固まってしまったら、それで終わりなんじゃないかと思うんです。人は誰しも自分の価値観というものがあります。それまで自分が見てきたこと、考えてきたことで目の前のことを判断する。至極当たり前のことですよね。でもそれだけに固まってしまって、他の人の意見を受け入れられないと、人との衝突が増えたり、ストレスが増えて、生きていく上でぶつかる問題が増えて、生きづらくなる。つまりは考え方に柔軟性があるほうが、結局は自分が楽に生きられる。自分の価値観で他の人のことを批判するのは簡単です。最近なら「きれる」という単語を使いますが、きれることは簡単です。

一方で、他の人の意見にばかり阿ると、自分というものがなくなってしまう。ではどうすればいいのか。

僕は他の人の意見を聞いた時に、自分の価値観と違うなと思うときは、まずはたとえ一瞬でもいったんその意見を飲み込むようにしています。つまり頭ごなしに否定しない。一瞬だけでも受け入れて、その人の考え方を想像してから自分の意見を話す。また今までの自分の中になかったものだなと思えば、興味がわいてきて、それを取り入れたいなと思うときも結構あります。

今朝の新聞に作家の渡辺淳一さんの言葉がありました。

「自分と違う考えの人を嫌ってはいけない」

朝から唸ってしまいました(笑)

僕の大好きな言葉に「柔よく剛を制す」という言葉があります。昔の人は本当によく言ったものだなと思います。


2014年1月10日金曜日

新たな試みをしてみようと思います

僕はこのブログを通して多くの人たちの役に立ったり、癒しになってもらえたらと思っています。ホームページの「ごあいさつと想い」という文章もそうです。

そこで今年はさらに新たな試みを考えてみました。それはクリニックの外に文を掲示することです。クリニックは長堀通という大通りに面しており、3階立てで、1階から入る構造になっています。去年に開院したときから前で立ち止まってクリニックを見てくれている人たちがいらっしゃることは気付いていました。そこで当院の前を通る人が少しでも元気になれたり、お役にたてたり、受診する緊張感を少しでも溶かせられるような文を書いていきたいと思いました。

まずは手始めとしてこんな詩を掲示しました。ある人の詩です。字は副院長(僕の父)が書きました。

この詩は虐待を受けた子どもの気持ちを表現しています。