2014年2月25日火曜日

退屈な時間を作る

最近は後部座席にテレビを設置している車を見ることが増えました。診察室に来る子どもたちも小学生以下なら半分近くの子が片手にゲームを持っています。診察中に平然とゲームを始める子どもたち。単にゲーム批判をしたいわけではありません。

家ではテレビとゲーム、外に出てもゲーム、外食中も箸だけ動かして、家族の顔は見ずに下を向いてゲーム。片時も暇な時間を持たないその光景は異様にさえ見えます。確かに子どもたちは退屈な時間が苦手ですから、子どもたちを静かにさせるには最高に効率のいい方法でしょう。

僕は子どもたちにとって退屈な時間は大切な時間だと思っています。何をしていいのかわからなくなった時に、子どもたちは初めて物を考えます。次に何をしようか、自分が何をしたいのか、今日あったこと、明日の予定のことなど、思考の回路が回り始めるわけです。周囲にいる友達と会話を始めることもあるでしょう。会話とは思考することです。それがテレビやゲームで次々と新しい刺激を機械から与えられる状況というのは自分で物を考える時間を奪います。

子どもたちに学校は楽しい?と聞くと、半分以上が「びみょう」、「ふつう」という答えが返ってきます。その時に僕は「学校がびみょうっていうのはどういうこと?」と聞きます。そうすると、「わからない」となることがほとんどです。つまり普段から決まった語彙だけを会話で使い、考えるという動作を頭の中でしていないため、とっさの質問に返答できない。これは大人も同じです。話がおもしろい人とおもしろくない人がいます。その2つを大きく分けるのは普段物を考えているかです。つまり物を考えていないと一つの話題が出てきたときにとっさに話ができません。

物を考えるためにはそのための時間が必要でしょう。そのためには本を読む、人と会話する、仕事をする、何かの体験をするなど様々でしょう。思考は筋力と同じです。普段、足の筋肉を使っているから歩けるわけで、使っていないと人は歩けなくなります。普段思考していないと、思考したくてもできません。どう思考していいのかわからないからです。

子どもたちに敢えて退屈な時間を作ってあげてください。車の中で車窓から見える景色を見ながら、子どもたちは自分なりにいろんなことを考えるはずです。

2014年2月22日土曜日

はじめから個性なんてない

どんな子にも誰にも負けない個性や能力があるから、それを見つけてあげようというような風潮。世界に一つだけの~みたいな歌もありましたね。この歌が時代を象徴してる気さえします。

その影響か、「自分にはこの仕事は合わない」、「自分に合う仕事を見つけたい」、「今の会社に自分のしたいことはない」、そんなことを真剣に語る10代、20代の方に出会います。人ってはじめから個性や適性なんてあるのでしょうか?個性を強調する風潮を見てずっと疑問でした。少なくとも僕はそんな特別な個性や能力を自分の中に感じたことはありませんし、僕の知人を見渡しても幼いころからの個性や能力を生かして生きている人なんてほとんど見たこともありません。誰にでももともとの個性がある。ただ耳触りのいい幻想だと思います。

ビート武さんがある番組で「子どもたちには個性がなくてもいいんだという教育をしたほうがいい」と話しておられました。けだし名言です。個性がなくてもちゃんと生きていけるという話を子どもたちにしてあげることが本当の意味で子どもたちのためになるのではないでしょうか。その個性の存在を信じるあまり、自分の個性を探すことに時間と労力を消費したり、何かを諦めるときの言い訳になってしまう。

僕は個性というのはある物事を続けていく長い時間の中でようやく見つかればラッキーかなくらいのものだと思っています。むしろ、はじめは自分には個性や特殊な能力はないのだという認識から始めるくらいがちょうどいい。

果たして世の中の大人の中で自分の個性に合った仕事をできている人がどれくらいいるのでしょうか?それを10代や20代で見つけられる人なんてかなり特殊な人たちです。自分の個性探しで彷徨する暇があるなら、とりあえずご飯を食べていく方法を探したほうがいい。自分の個性や能力を探すなとは言いません。むしろ自分が何に向いているのか、何をすれば他の人に負けずに生き残れるのか探すことは人生において最重要事項でしょう。それをせずに漫然と生きている人は嫌な仕事だけして一生を終えます。なので自分には何が向いているのかを常に自問しながら、生きていくための仕事を続けるわけです。そしてこれだと思うものに出会えた時に方向を大きく変えればいい。

働きながら、自分の個性を模索してください。

僕の好きな言葉ですが、「考えてから動くのではなくて、動きながら考える」。

大切だと思います。

2014年2月19日水曜日

病気のことは患者さんが教えてくれる

病気のことは教科書、論文、偉い先生から教えてもらうことはもちろんたくさんあります。その中にはこれまでの歴史的な知識の蓄積があります。医者としてすごく助かります。でもそれ以上に病気のこと、症状のことを教えてくれるのは患者さんなのだと考えています。

うつ症状を持った会社員の患者さんに出会いました。朝に会社に行かないといけないのに起きれない、動く気がしない、いつまでもごろごろしたい、好きなテレビを見る気がしない、お腹がすかない。この時、ああこういうのをうつ症状というのだと思ったことを覚えています。

摂食障害のお子さんに出会いました。もう自分でもやめたいのに拒食や運動をやめられない。誰がどう見てもやせが激しいのに「私はお姉ちゃんよりも太い」と涙を流しながら話す。

強迫性障害の手洗いの激しさ、統合失調症の被害妄想、パニック障害の電車の中での辛さ、躁状態の多弁さ、アスペルガーやADHDの人の会社での辛さ、リストカットや大量服薬をするときの気持ち、親に包丁をむけられたときの気持ち、覚せい剤をやめられない辛さ、抗うつ薬の効果を感じる瞬間。みなさん、僕に自分の症状を伝えようと必死に、そして赤裸々に話してくれます。誤解を恐れず言えば、この瞬間が僕にとっての最高の勉強。まるで知識のシャワーです。このときにその人の状態を徹底的に頭に入れて、治療の方法を考えたり、同様の症状を持った人が来られたら、頭の中で以前に診た患者さんの症状や話されていた悩みを引っ張り出してくる。こんな目に見えない頭の中での蓄積を重ねていくことが医者の技術や技量を高めるものだと信じています。もちろん、これはどの仕事でも同じでしょう。

患者さんは最高の師匠。

変な話かもしれませんが、これからも患者さんにたくさんのことを教えてもらうつもりで診療を続けていきたいです。

2014年2月16日日曜日

生きていることに虚しさを感じている人へ

自分はなぜこの世に存在してるんだろう、生きてる意味があるのかな。

こんな空虚感をもって生きている人が外来に訪れます。うつ病、適応障害、人格障害など病名はいろいろつくかもしれない。その年齢層は小学生から大人まで。その人たちに共通していると感じるのは「生き疲れた」ということ。生まれつき空虚感を持っている人はいないと思います。さまざまなことがあって、それに対して自分なりに今の環境の中で生き残るために頑張ってきたけど、それでもだめで、もうだめかなと思っている。

この場合、まずはうつ病の治療(薬、休息)は大切でしょう。でもうつ病の治療として薬を服用したり、休息してもこの空虚感は完全にはなくなりません。そしたら、こんな患者さんに出会った時に僕ができることは何かなと診察室の中で必死に考えて、思いついた一つの作戦が「何か小さなものでもいいので目標を持ってもらうこと」です。ご本人なりの達成感を感じることができそうな目標。その目標をとりあえずは暗闇の人生を歩くときの灯りにしてもらう。そうして歩いていると、思いがけない生き甲斐や生きる目的を見つけられることがあります。その生き甲斐を見つけられたらこっちのものです。

小さな目標が見つからない人、見つける気がしない人には僭越ながら僕が一緒に考えられたらと思います。

2014年2月13日木曜日

その病気になったことがないのに気持ちがわかるの?

「先生はこの病気になったことがありますか?」

患者さんに聞かれることがあります。この時僕は「なったことはありません」と素直に認めるようにしています。それ以上何も言いませんし、無駄な抵抗はしません。

実際のところ、この問へは医者になってから僕自身、自問自答してきました。僕はその病気になったことがないのに自分には何がわかるんだろう。これまた、自分がいやになる瞬間です。でも病気の人に対峙して、治療していくのが僕の仕事です。しかも自分が経験したことがないのに知ってるふりをすることは嫌いですし、自分が患者さんの気持ちを100%は理解できていないという姿勢から治療は始まると思っています。そしたら自分はどうしたらいいのか。

今現時点で僕が思う結論が2つあります。

1つは医者は基本的には健康であることが大切だということです。
たとえば、僕があらゆる精神疾患の経験があるとします(現実的には困難ですが)。そうすると患者さんの気持ちがわかってよく治療ができるのか。もちろん気持ちに共感しやすいというのは大きな武器です。でもよく考えてみたら、そもそも患者さんはそんな健康でない医者に診てもらいたいと思うでしょうか。この世に全く健康体な人は僕はいないと思っています。ただ、大きな問題を抱えた患者さんに対峙して、治療するためには基本的に心身ともにある程度自分が健康でないと立ち向かえません。

もう1つは患者さんの気持ちがわかることと、治療できることは違うと考えています。
気持ちがわかって「そうですよねー」としみじみ自分の経験と突き合わせていくことはできるでしょう。ただいくら共感ができても治せるとは限りません。やはり患者さんを治すには技術というものが必要だと思うからです。いつも言うことですが、精神科医は単に人生経験が豊富な町のおばちゃん(僕はおっちゃんですが(笑))ではいけないと思っています。患者さんに自分の人生論をいくら披露しても治療はできません。

この2つのことから自分の健康を維持しながら、精神療法の技術を向上させることが今の自分にできることではないかと考えています。

2014年2月12日水曜日

アスペルガーとADHDの見分け方

同じことをいつも忘れる、話し出すと止まらない、会話に割り込む、なれなれしい、懲りない、落ち着きがない、空気が読めない、すぐに手が出てしまう、興味があるものが目に入ると走っていく。

不注意、多動性、衝動性などという用語で説明できるものばかりです。

これらはすべて自閉症スペクトラム(Autistic Spectrum Disorder: ASD、アスペルガー障害や広汎性発達障害が含まれます)、ADHDにみられる症状です。さらに自閉症スペクトラム(ASD)とADHDは合併することが多いといわれています。そうなってくるとこの2つの見分け方はかなり困難になります。しかもこの2つを見分けることで、精神療法、薬物療法ともに治療の方向は変わってきます。

先日、京都大学精神科の十一先生の講演をお聴きしてきました。そこでこの2つの見分け方について教えていただきました。

自閉症スペクトラム(ASD)の特徴は大きく2つです。

・他者と自然に反応、呼応しあう能力の障害
・一定不変であることへのこだわり

ADHDの人は他者と呼応しあう、つまり相手の気持ちを慮ることはできますし、一定不変へのこだわりはありません。ただ、ADHDの人はその瞬間は自分の気持ちを抑えられずにし、してしまった後に後悔することが多いような気がします。自閉症スペクトラム(ASD)を軸として考えるとADHDとの見分けがしやすいのです。

改めて勉強になったので今日は書いてみました。

2014年2月7日金曜日

報われない努力もある

為せば成る、努力は報われる。

一般的にこの言葉は努力すればいい結果が生まれるという、人々を励ましてくれる言葉です。僕もこの言葉を信じて生きてきましたし、今も信じています。

最近、曽野綾子さんの本を読みました。その中で「努力は報われないこともあり、途中で諦めるということを道徳的に許さないこの時代はおかしい」と指摘されていました。また「諦めがつけば人の心にはしばしば思いもしなかった平安が訪れる。諦めることも一つの成熟なのだ。」とも。

人は生きている中で努力しても結果が出ずに、途中であきらめないといけないことに遭遇することは多々あるはずです。部活をやめること、学校をやめること、会社を辞めること、事業を閉じること、離婚することなど。自分は今まで頑張ってきたのだから、頑張れば結果が出るはずだとなかなか諦められない。その時に道徳的に諦めてはいけないということを忠実に守るとすれば、多大なストレスがかかるわけです。それではどう判断すればいいのか。それは諦めないことを続けたとして、自分の心身の健康が保たれるのかで判断するべきでしょう。根性論や精神論を全否定する気はありません。むしろ「努力は報われないこともある」とは努力していることが前提です。でも一つのことにぶつかって、自分の心が壊れてはいけないわけです。そのあとも人生は続くのですから。

報われない努力もある。この言葉を頭の片隅に置いていれば心を軽くして生きられるのかなと思います。


2014年2月4日火曜日

自分の中にはきれいな自分と汚い自分がいる

児童精神科医としてホッとするときの一つとして、子どもたちのきらきらしたきれいな心に触れるときがあります。幼稚園で暴れる子も「友達を叩いたらだめだよ」とこちらが真剣に話すと神妙な顔をして聞いてくれたり、はじめはふてくされた顔の高校生も診察が終わるころには「また来る」と言ってくれる(ごくたまに厳しい環境で育った子で全く通用しない子もいます)。なんかうれしくなって、ホッとしちゃいます。

こんなきれいな心に触れていると僕自身、自分を侮蔑したくなったり、これでいいのかなと悩むことがあります。でもこれって、この世の中を生きていく上で人なら誰しもあることだと思うのです。特に正義感の強い思春期くらいまでの子どもたちは自分がした悪いことを心の中に持ち続けて悩んでいることが多いような気がします。これは思春期でなくても大人にも言えることでしょう。どんな人でも正義感は持っています。その正義感に照らし合わせて自分がしたことを責めてしまう。この時にはきれいな自分も汚い自分も両方ともが自分であることを認めることが、生きていく上で大切だと思うのです。完全無欠な人なんていないでしょうし、仮にそんな人がいたとしたら、誰からも興味をもってもらえなくなるでしょう。なぜならそんな人は面白くもなんともないから。自分に弱点があることを認めて、それを人に話すことで、他の人たちは自分に興味を持ってくれます。そうすると自分が楽になる上に他の人との関係もよくなる。

とどのつまりが肩の力を抜くこと。頑なにならないこと。大切だなとしみじみ思います。

2014年2月2日日曜日

仕事の理想をはっきりさせる

最近、読んだ新聞記事に今の自分の気持ちをあまりにも正確に表現してくれている言葉があったので、ブログに書いてみたいと思います。

その記事に出てくる方は元麻布で日本料理店をされている神田裕行さん。ミシュラン三ツ星レストランだそうです。もちろんミシュランの三ツ星がすごいのではありません(他人の主観で星がいくつだとか、その評価自体まったく重要ではありません)。以下は神田さんの言葉です。

・私は自分にとって理想の日本料理を突き詰めるプロセスで悩みましたが、あなたにも思い描く仕事の理想をはっきりさせていくようにとお伝えしたい。簡単ではないかもしれませんが、「何か違う」という違和感を切り捨てないで、それでも基本となる大切な知識や技術を磨き続けてください。

・気づいたこと、やらなければいけないと思ったことはすぐにやることを習慣にしていってほしい。

・ちょっときついけれど、いいとわかっている「右」へ常に振っていく気持ちの強さが結果的にはあなたの仕事を大きく違う場所に導くのですね。

この言葉たちは僕の脳天を上からまともに刺激してくれたと感じました。
 
まずは自分にとっての理想について。自分にとっての理想は無意識には考えています。診療をしながら「何か違う」という違和感も自分で感じている。でもそれをはっきりさせるためにはそれを立ち止まってゆっくり思考する時間、そしてそれを自分の目に見えるようにはっきりさせたいという気持ちが必要だと思います。日々の診療に忙殺されて、自分ができていないことに真摯に向き合う時間を持たなくてはならないと感じました。患者さん一人一人を診療する中で、自分の中にわいてくる違和感、疑問点、自分に足りない部分に向き合わないといけない。
 
そして気付いたこと、やらないといけないと思った勉強、作業、思考について、すぐにやっていきたいです。

ちょっときついけれどいいことだとわかっている、それをやるのかについて。いいとわかっていて面倒くさいからしないことはみんなにあると思います。でもそれに打ち勝ってやり続けることをしないと成長はないのだと改めて感じました。

まだまだ僕は仕事の理想を見つけることができていません。そのフォーカスをはっきりさせるために、仕事に対する自分の違和感の一つ一つを大切にして、いいとわかっているちょっときついことに挑戦し続けたいと思います。

今日は僕の誓いを表明する文になってしまいました。失礼いたしました。