2014年4月28日月曜日

精神科における病気を受け入れてもらうこと

小児科で臨床をしているとき、先天性疾患、癌、心臓病、腎臓病、膠原病など、その人の一生を左右するような大きな病気の説明をすることがありました。その時、内心ものすごく負担でしたが、誠意をこめて丁寧に説明すれば、ほとんどの場合、納得していただけました。なぜなら、それは誰の目で見ても変わらない診察や検査の結果という事実があるからです。

ところが、精神科の臨床では統合失調症の幻覚妄想や躁状態、うつ状態、自傷行為、発達障害であったとしても、本人や家族が納得できない場合があります。特に、それが症状が初期の場合に顕著です。それは「うちの子にそんなことはない」とか、「障害じゃなくて、ちょっと生活しにくいだけです」とか、症状がまだ一定しない場合には一見症状が見えにくいときがあるため「まだ決まったわけではないですよね」などと受容が難航することがあります。でも患者さんや家族は何らかの困難や問題を抱えているため、精神科の門は叩いてくれる。そこにはもちろん大きな葛藤があります。

確かに、精神科の診断は診察してとれる所見から精神科医がするものであり、誰が見てもわかるような客観的な診察所見や検査結果がない場合があります。そうなると、患者さんや家族への説明が難しくなる。でも実際には小児科における先天性疾患、癌などと同様に、その人の一生を左右する重大な病気です。何も体の病気だけが、人の人生を左右するのではなく、精神科の病気ももちろん人生を左右します。

そこで難しいのは、こちらがあまりに熱く説明しすぎると、変に説得や押し付けみたいになってきて、患者さんの反感だけを買うことがある点です。診断や治療を受け入れてもらえず、通院や内服を拒否されたり、中断されたりする方をたくさん見てきましたが、ほとんどの場合、もう一度会うことになります。それはもちろん、医療者側も患者さん側も望んでいることではありません。

精神科における病気の説明、告知は他の科に比べてわかりにくいため、かなり慎重に、しかも丁寧にする必要があると痛感しています。その時に自分が持てるだけの知識や治療法を誠心誠意説明する。そして、たとえ受け入れてもらえなくても、何か異変があれば、「またもう一度来てもいいかな」くらいにしてお帰りいただくよう心掛けています(あくまでできるだけですが)。ここでも精神科における「治療をつなげていく」ということの大切さを改めて考えさせられます。何かあった時に来てもいいと思ってもらえるようにする。それが5年、10年後のその人の人生にとって何らかの役に立つのではないかと信じて、今日も診療をしています。

2014年4月25日金曜日

見たいテレビ番組

テレビに関する考えはいろいろあると思います。テレビを家におかないという考えから、テレビを1日中見ても飽きないという考えまで。

僕は性格上、テレビを何となく見ることが苦手です。なので、流行している話題、芸能人、歌など、ほぼ知りません。社会で流行していることよりも、今の自分が何に興味が向いているのかのほうがどうしても気になります。もちろん、娯楽番組もいいとは思いますが、僕はあまり興味を感じません。

ニュースに溺れてしまうというデメリットもありますが、自分はどんなものに興味を持つのかを知りたいこと、新しいものを常に自分に仕入れることからテレビを見ます(新聞も同様ですね)。

僕のおすすめは「カンブリア宮殿」、「プロフェッショナル」、「スイッチインタビュー」です。あと、「アスリートの魂」も、朝から自分のテンションを上げるのにはいいです。

他にガイアの夜明け、情熱大陸、ソロモン流などたくさん見てきましたが、これらは内容がマンネリ化していたり、芸能人やスポーツ選手が出すぎて、この世で懸命に生きてる人はテレビ界にしかいないのかと錯覚してしまうくらいです。特に今の情熱大陸、ソロモン流はほぼ芸能ニュースに近いです。それで最近はこれらはほとんど見ません。

カンブリア宮殿は第一線の経営者が登場して、その人の経営哲学もそうですが、何を目指して経営し、生きているのかをしめしてくれます。それは年商何千億であろうが、何百万であろうが規模に関係ありません。カンブリア宮殿に出るすごい経営者たち共通するのはお金ではない、もっと違うやりがいや興味を求めているところです。それの多くは人のためであったり、世の中を変えたいというものです。何か熱い思いがそこにはあります。

プロフェッショナルは第一線の一人の技術者というか、会社というよりもその人を追いかけてくれるので、その人個人の仕事への姿勢、生き方が見れます。

スイッチインタビューは第一線で活躍している人同士がお互いにインタビューをします。そして、自分の仕事における共通点や相違点を話題にしていきます。これはかなりレベルの高い会話をされるので、なにかいい座談会を見せてもらってるような気持ちになれます。

直近で一番印象的だったのはプロフェッショナルで、脱サラして一から自分で勉強して日本を代表するチーズ職人になった吉田全作さんでした。

「常に険しい道を選んできたからこそ、今がある。自分の思った道を実現するにはいろんな道がある。簡単な道と面倒くさい道の岐路がある。その時は必ず面倒くさい道を選ぶ。そうすると必ず成功する。なぜなら面倒くさい道は誰も選ばないから、そこに多くのヒントが転がっている。僕はそれを経験から知っている。」

しびれましたね。

これらのテレビ番組は手軽にすごい人の話を聴けるという点で、素晴らしい本を読む、素晴らしい人の話を聴くのと同じくらいの価値があると思います。みなさんもぜひ、ご覧ください!


2014年4月21日月曜日

将棋と精神科治療は似ている

子どものころ、一時期将棋にはまって、デパートで開催される日曜日の将棋祭りに行ったことがあります。長いテーブルを4つで正方形にして、中にはプロ棋士の人がいて、そのテーブルの上に将棋盤が並べられ、子どもたち20人くらいに対して同時に指してくれます。飛車、角落ちの状態ですが、もちろん相手になんかなりません(笑)。プロ棋士の人が一人ずつにまわってきてくれて、状勢を見て、一手を指したら、となりの子どものところに行き、また一手指します。

ある日診療をしていて、ふとこの昔のこの時の光景が浮かんできて、僕は患者さんを相手に診察のたびに将棋を一手ずつ指しているのと同じだなと気づきました。どうしたらこの将棋を詰めることができるのか。つまり、患者さんがよくなるのか。先ほどのプロ棋士の人と同じで、1日に何十人もの人と連続的に対峙して、その日の一手を指すわけです。

僕は将棋と精神科の共通点を感じてからは棋士の書かれた本をよく読むようになりました。
森内俊之名人の著書の中で対局の最中に「こんな手があるのか、こう攻めてくるのか」と気づいて、どんどん知的好奇心が刺激されて、それで自分が成長してることを感じるとありました。これまた僕も診療の中で患者さんが言われることで、「なるほどこんなときは人はこう感じるんだ」と内心すごく興奮するときがあります。それを自分の中に貯めていける、吸収していける瞬間があります。こんなところまでも、似ていると読んでいて感じました。

診療での自分の中の蓄積を多くして、明日も効果のある新たな一手が指せたらいいなと思います。

2014年4月18日金曜日

「うらやむこと」と「ねたむこと」は違う

僕はお酒を飲むことが好きなので、よく場末の居酒屋さんに行きます。そんなところに行くと、上司や部下の悪口を言ってる人によく出会います。

「あいつは運がよくて営業成績を上げている」、「なんであいつが出世するんだ」、「自分にはこんな辛いことがあって我慢してるのに」、「お金があっていいよね、あの人は」みたいな会話が多い気がします。

僕は「うらやむこと」と「ねたむこと」は違うと思っています。
自分よりも何かが上手にできたり、いい生活ができたり、いい結果を出せてる人を見ると、僕はすごくうらやましいです。自分もそうなりたいと思う。そうするためにはどうすればいいのか、その人と自分は何が違うのか、その方法を探して、何かいい方法があるなら直接聞きたいと思います。そして実際に聞いてしまいます(笑)

でも世の中には自分は努力をせずに、先に自分できない理由を並べてから嫌なことは避けて、他人のことを嫉む人が多いなと感じています。そして、どういうわけかそんな人は実際に精神的な調子がいつも悪いし、イライラして、表情も暗い。ねたむという思考が脳に相当なストレスを与えるのだと想像しています。

うらやましいという感情はどちらかと言えば、前向きです。自分もそうなりたいと思う。大学受験に失敗したけど、友達が合格したことでそれがうらやましくて自分もがんばる。仕事ができる先輩みたいになりたい。でもねたむという感情は後ろ向きです。他人への陰性感情がどうしても入ります。なんであいつだけあんなにうまくいくんだみたいな。

うらやむことと、ねたむことの道が分かれるのは、自分よりもいい状態にいる人を見たあとに、どう考えて、どう行動するかです。その人を見習いたいと思うのか、その人への批判の感情をもつだけで終わってしまうのか。

「これほどの努力を人は運という」という言葉がありますね。
本人はすごく努力して得た結果なのに、人はその努力や結果を運がいいという言葉で片付けます。人生というか、ねたむ人の気持ちをうまく表現した言葉だと常々思います。

今日は僕の大好きな見城徹さんが本の中でこの言葉について触れていたので、最後に載せたいと思います。

何かがうまくいってるときに人はみんな「運がいいよね、うまくいっちゃって」って言うけれども、冗談じゃないよ。俺はあなたの100倍血のにじむような努力をしてるんだっていうふうに言いたい気持ちを抑えて、飲み込むわけですよ。それを言っちゃったら馬鹿だから。「運がいいよね」って言われてない時はうまくいってない時だから「運がいいよね」って言われなきゃだめなんですよ。

2014年4月15日火曜日

製薬会社の方と接する中で

今まで多くの製薬会社の方にお会いしました。

昨今は利益相反の問題がニュースになり、良いか悪いかは別にして、マスコミは面白おかしく医者と製薬会社の関係を騒ぎ立ててくれます。それが大きくなって、病気の概念にまで影響するほどの大きな問題が話題にもなっています。

医者になったころからずっと思ってきましたが、製薬会社の方々の平身低頭がすぎる態度は僕たち医者を人としてダメにしてくれるんだろうなと思います。お会いするときには「先生、先生」で、基本的にはちやほやしてくれます。そうなると、医者のほうはお互い社会人で大人同士なのに、初対面からため口で、製薬会社の人を顎で使うみたいな人が必ず出てきます。そんな医者を見るたびに、「何がそんなに偉いのかなあ、いい大人なのに初対面から他人にため口ってすごいなあ」と常々感じていました。少しちやほやされただけで、すぐに態度が崩れてしまう医者の姿に、その人の本質を感じたものです。でもそれを作る製薬会社のほうにも問題がある。

時に、あまりに頭をさげられるので、中には慇懃無礼にしか見えない方にもお会いします。「あーこの人はこんな態度で医者を内心馬鹿にしてるんだろうな」とも感じました。それくらい医者という人たちの中には馬鹿にされていることにも気づかない人が多いのだろうし、医者の平和ボケが進んでいるのかなとも想像しました。

僕は仕事の上で、製薬会社の方は対等にお付き合いするべき存在だと認識しています。僕たち医者にとって、薬は不可欠な武器です。その薬とその情報を提供してくれてはじめて仕事ができる。もちろん、僕たちが薬を使うことで製薬会社も収益をあげる。お互い持ちつ持たれつの関係です。いわば、仕事のパートナーです。なので、個人レベルではお互いに普通の社会人として尊重し合うべき存在です。

僕は決して製薬会社の方を嫌ってるわけではありません。僕が人として尊敬している人や仲良しで大好きな人もたくさんいます。尊敬できる方々は、人に接するときの基本的な姿勢を僕に教えてくれました。どうすれば相手のためになるのか、喜んでもらえるのかを。

あるとき、MRさん2人と僕とで一緒にタクシーに乗ることがありました。その時に「僕が真ん中に乗るので、先生は先に乗ってください」と言われたのです。この瞬間、ハッとしましたね。車の後部座席は真ん中に座る人が一番不便な姿勢になります。それからは僕は目上の人と3人でタクシーに乗る時は自分が後部座席の真ん中に座るようにしています。これを教えてくれた方は僕が開業した時にクリニックに来てくれました。この時にも内心、さすがだなと思ったものです。製薬会社の方は薬のことだけでなく、営業のことや社会での処世術まで、1日中診察室に座っている僕たち医者にはわからないことを教えてくれます。

医療者が製薬会社の方と人として対等に仲良くすることで、お互いにたくさん学び、それらを患者さんに還元することが医療者と製薬会社の務めです。そしてそれができれば、医療者も製薬会社の方も仕事のやりがいを感じれると思うのです。こういう意味でwin winの関係になれたらいいですね。
今日もそんな気持ちでうちのクリニックに来てくれる製薬会社の方々とお話しています。

2014年4月14日月曜日

患者さんに苦言を呈する

生きている中で人に対して苦言を呈するときは誰しもあることだと思います。

僕たち精神科医は生活のこと、その人の人生が話題になることが多い分、僭越ながら患者さんに苦言を呈することがあります。これはなかなか勇気の必要なところです。逆に言えば、患者さんの言うことに同意を続けて、やさしい声かけをすることは簡単です。そうすれば、患者さんと表面的にはうまくいくでしょう。でもそんななあなあの治療で、実際にその方の状態がよくなっているのかです。大切なのはその患者さんがよくなっているのかです。

診察を重ねる中で、患者さんにとって「ここはがんばりどころですよ」という時があります。それは患者さんにとっては痛いところを突かれたり、耳の痛い話なわけです。僕自身も自分でいいながら、これを受け入れてもらえる状態なのか、この言葉が本当にこの人のためになるのかを考えてから発言するようにしています。やはり苦言を呈するにはいつどのタイミングでいうのかが大切です。

最後はもう賭けとしか言いようがありません。この言葉を発することで、その患者さんが怒ってしまってもう来ない可能性もあります。精神科の治療は1回1回の診察をつなげていくことが大切なので、来なくなると終わってしまう。それは僕としては避けたいところです。ただ、僕がいつも思うことは僕に嫌なことを言われたからと、そこから奮起してがんばってくれればそれでいいと思っています。通院を続けることが目的なのではなく、その患者さんの状態がよくなることが目的ですから。もっと言えば、その時は状態が悪くなってしまったとしても、いつの日か、僕の診察の中での言葉を思い出してくれて、それで状態がよくなれば、うれしいなという一抹の希望を持って、苦言を呈するようにしています。


2014年4月8日火曜日

生きることは自分にとっての「真実とは」を探すこと

僕は哲学的なことは全くわかりませんが、物心ついた10代から日常生活での一つ一つの悩みを通して、生きていることは結局どういうのことなのかと自分なりに思いあぐねてきました。

例はいくつもありますが、たとえば、人付き合いでうまくいかないのでどうしたらうまくいくのか、テニスがうまくなりたいけどどうしたらうまくなれるのか、一番自分がリラックスできる時間の使い方は何なのか、どうすればいい診療ができるのか、自分が一番わくわくするものは何なのか、自分とはどんな人間なのかなど、枚挙にいとまがありません。さらに言えば、今日のお昼に何を食べようかなあ、自分は何が食べたいのかなあと考えることさえ自分が本当に欲しているものは何かと考える点で、それほど違わないと思っています(笑)。これらに共通することって何なのか。30代に入ってあるときふと気づいたのですが、これは自分にとって「何が真実なのか」を追及することなんだと。要するにある事象や物事の中で何が一番いい方法なのかを悩んだその延長線上に、何が真実なのかを追い求めているわけです。逆に言うと、いろんなことを追及したり、悩んだりしないと、真実や人生は見えてこない。いつまでたっても五里霧中のままです。

故事や偉い人の言葉は多くの場合、物の本質をついています。なるほどと納得することが多いでしょう。しかし、たとえばその故事の中で「善は急げ」と「せいてはことを仕損じる」、「果報は寝て待て」と「まかぬ種は生えぬ」のように全く逆のことを言っているものがあります(こまかな解釈の仕方はあるにしても)。または故事を聴いて「自分はそうは思わないな」と違和感を感じた経験はないでしょうか。つまり人によって、どちらかに意見が割れることがあります。それは人によってその人の思う「真実とは」の定義が違うのだと思います。なので僕が「これはこうだ」と信じていることを他の人に押し付けることはできません(ただ聞かれた場合には自分なりの真実だと思うことを話します)。人によって見てきたものが違うため、「真実」が違うからです。何が正しくて何が間違ってるかという話ではありません。常軌を逸していない限り、その人なりの信じている真実があっていいのです。またその「真実」は年齢によって変遷していくことも当然あるでしょう。僕はいつの日か、いろんなことについての自分にとっての「真実とは」の答えが一つに集約されて見つかればいいなと思っています。

 「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ(精神的に自立する)。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう、他人の意見に反発を 感じず、素直に耳を傾けられるようになる)。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず(自分の思うがままの行いをとっても自然の法則から外れることがない)。」

有名な孔子の言葉ですが、これができる人は真実が見えてる人じゃないかと思っています。できるかどうかは別にして、目指していきたいですね。



2014年4月5日土曜日

寒い日にあたる焚火のようなクリニックでありたい

自分の居場所がない、自分をどこに置いていいのか、どこにいたら楽になれるのか、それがわからない子どもたち、若者、大人に出会います。

多くの場合、家に居場所がありません。「私、今からどこに行けばいいのかわかりません」と。それを聴く僕が後ろ髪をひかれるような台詞です。勤務医をしていれば、「じゃあ今日は病院で過ごす?」と入院を勧めることもできるのですが、クリニックではそれができません。どうにかしてあげたいけど、僕にはどうにもできない。ずっとそばにいるわけにもいかない。もどかしいですね、こんなとき。

この時に僕ができるささやかなこととして、「ここで少しゆっくりしてから帰ってね」と待合室やクリニックの中で過ごしてもらうようにしています(本心ではお茶の一杯でも出したいくらいです)。ただ、待ち合いが込み合いすぎて、ゆっくりできないこともあるので、できるだけ、静かな時間帯に来てもらうようにしています。

僕、人はみんなさびしがり屋なんだと思うんです。外から見た時にすごく元気で前向きでエネルギーにあふれているように見えている人も、一人の時の顔はそんなことない。さびしいな、虚しいなという気持ちを自分なりに誤魔化して生きる。それが普通の人なんじゃないかと。

小さなクリニックの開業医である僕にできることはあまりにも限られているので、心が寒くなった時に、焚火にあたりたいなという気持ちで行きたくなるような宋こどものこころ醫院でありたいと思っています。

2014年4月4日金曜日

3歳で単語しか出ないお子さん

2歳から3歳で言葉がまだ単語だけというお子さんに開業してから特によく出会うようになりました。

まず最初に確認したいところは聴力、発語に関係する口腔内、咽頭、喉頭、頭蓋内の器質的疾患がないか、自閉傾向を含めた発達障害の有無です。当院では発達障害がある場合には、応用行動分析(ABA)での対応を親御さんにお伝えして、それをご家庭で実践してもらい、全体の発達を促す中で、発語を促すことをします。

しかし、中には単語は出るけど、それ以上がなかなか伸びず、器質的な病気や自閉症はない方が来られます。
そのときに僕たち児童精神科医に何ができるのか。実は開業して以来、ずっと考えてきましたし、今の時点で、僕自身にも明確な答えや対応方法は見つかっていませんが、いくつか共通点を見つけました。

・お母さんと子どもが二人きりで、過ごしている時間が長い場合
・お母さんが育児に疲れて、子どもに関わっている時間が短い場合
・まだ幼稚園や保育園などの集団生活を迎えていない場合

当然ですが、言葉というのはインプットがあるからアウトプットがあります。英語を聴き取れない人は英語は話せません。たくさん聴いた経験があるから、ある時から言葉が口から自然と出てくるわけです。それは子どもも同じです。

言葉を促すのに必要なことは一緒に遊ぶこと、絵本の読み聞かせ、さらにテレビの幼児番組もいいと思います。1日2,3冊でもいいので絵本の読み聞かせは続けてあげてください。本に対する興味を持つきっかけにもなり、将来的に本を読む子になれる可能性が高まります。

そして同時にお母さん自身も子どもに接する時間を持つために、ご自分の充電を忘れないで頂けたらと思います。




2014年4月2日水曜日

春のお遍路


みなさん、お遍路をご存知でしょうか?僕は毎年春にお遍路に行きます。

弘法大師(空海)が四国を歩くことで修業をしたとされ、それにゆかりのあるお寺八十八か所をまわることでご利益が得られるというものです。ただ、僕は何かご利益を得るためというよりも、ただひたすら早朝から夕方まで1日中歩くだけという非日常に自分を置いて、自分を充電することが目的です。ちなみに、八十八か所のお寺をすべてまわれば、総距離は1200km程度と言われています。もちろん、通しでまわれるわけはありません。中には通しで回る人もいますが。。。僕は1日20-30km程度しか歩きません。しかも分けて行くので、1回のお遍路で多くて3-4か所のお寺をまわります。

僕が初めてお遍路に行ったのは2008年の春でした。その当時、僕は大阪の病院から東京の病院に移る前で、忙しい日々の生活に疲弊していました。その時、弟からお遍路はいいと言われ、何がいいのかもわからず半信半疑で四国に行きました。その際に通りかかった室戸岬を望む丘に立ったとき、弟が「ここええやろ」との言葉で、自分の中で何かが切れたかのようにむせび泣きました。30分は涙が止まりませんでした。でも自分自身でもなぜ涙が止まらないのか説明できないでいました。そのあとに、「ああ、自分は疲れているんだ」と気付いたのです。

それ以降、毎年気候がよく、桜や菜の花がたくさん咲き、文旦、はっさくの実がたくさんなる春に四国に行きます。きれいな花は見放題、柑橘類は食べ放題です(笑)。お遍路に行くと、5時に起きて朝食をとり、6時から夕方までただひたすら歩きます。その間に美しい四国の景色を見て(これがメイン)、他のお遍路さん(お遍路に行く人をこう呼びます)と話をし、地元の人からお接待(食べ物、場合によってはお金のことも)をいただくこともあります。四国の人たちはお遍路さんというだけ話しかけてくれたり、やさしかったりします。そして、夜は民宿で食事をしながら全国、あるいは外国(韓国、中国、アメリカ、シンガポールの人に出会ったことがあります)から来られたお遍路さんたちと身の上話をすることもあります。その時に感じるのはお遍路に来られる人たちは人生で何らかの悩みや事情があって、来られる方が多い気がします。

さて今回、高知県の中村でタクシーに乗ったのですが、運転手さんの手が震えていて、スピードも40キロくらいしかでないし、ブレーキのタイミングも遅い。怖すぎます。どうみてもその方は80代でした。助手席の前にある運転手さんの生年月日に目をやると、64歳。写真も異様に若い。気になって「お若い時の写真なんですね」と僕が言うと、運転手さんは「それ俺じゃないよ。俺の車は今友達が遠くまでお客さんを送ってるから。」とのこと。つまり他人の車でタクシー営業をしているわけです。僕はもちろんそんなタクシーに乗ったのは初めて。まったく悪びれる様子もなく普通に答えるその姿に笑いを抑えるのが大変でした。

こんな出会いもお愛嬌です。人生に疲れたときの一つの選択肢としてお遍路をお勧めします。