2018年4月27日金曜日

僕が治せない人はいます

NHKのプロフェッショナルの中で、将棋の永世7冠の羽生善治さんが、こんなことをおっしゃっていました。

(その負けが)自分の形になるのなら、一つや二つ負けるのは苦にならない

僕はこの言葉を聞いた時、人の治療をしている自分にはこれはあってはいけないことではないかと思い、やはり将棋と精神科治療は違う部分があると思いました。ただ、その後しばらく考えていると、そうでもないのかなと思い始めました。決して後ろ向きな意味ではなく、治療をさせてもらっても僕が治せない人は必ずいます。特に以前は今よりもたくさんいました。精神科治療を勝ち負けで表現するのが正しいかは別にして、治せないということは勝ち負けで言えば「負け」です。現役の精神科医が治せないなんて言葉を口にすることが許されるのかどうかはわかりません。ただ、それがある確率で生じるのなら、それを生かして、自分の肥やしとして自分の治療の形を作り、次の治療に生かして、治せない患者さんを限りなくゼロに近づけていくことが精神科医として自分が目指すところだと考えています。それが羽生さんのおっしゃっていることと同じ意味を持つのではないか。やはり将棋と精神科治療は似ているのではないかと考え直しました。自分の治療の形を作るために、負けても続けていきたいと思います。

2018年4月20日金曜日

人は自分の頭で全て理解できると誤解してしまう

人は生きていていると、目の前で起こることを全て理解できる、予測できると無意識に誤解してまう。それは自分の心を守るためにそうしているとも言えるかもしれません。でもそんなことはありえないでしょう。人一人の頭で考えたことで、世の中に起こることが全て理解できたら、この世の中を生きて行く意味、新たなことを発見する意味はなくなってしまう。頭で理解できないこと、想像を絶することが起こるからこそ、人はそれを解明しようと努力して、ここまで文明が発展してきたのだと思います。一人でそんなことを考えてみました。

2018年4月13日金曜日

圧倒したいと思うことが敵

ボクシングのWBA世界チャンピオンの村田諒太選手が初の防衛戦に臨みますね。それに向けてこのようにコメントしていました。

「こういう試合は1ラウンド目から圧倒しようという気持ちになりがち。チャンピオンの姿を見せたいという気持ちがはやりすぎるのが初防衛戦が難しいと言われる正体だと思う。その気持ちをいかに抑えた状態でリングにあがれるか、リングの上で気持ちを抑えてボクシングができるかが一つのカギ」

人前でいいところを見せたいという気持ちはみんなあると思います。僕も診療でこの人を良くしたいと力みすぎて、逆に失敗することがあります。そういう自分の気持ち自体が最大の敵なのかもしれません。多くのアスリートの人たちが言うように、敵は相手ではなく、常に自分であるということを改めて確認させられました。人は相手のコントロールはできませんが、自分のコントロールはできます。それさえできれば、今目の前で起こっているいろんなことが変わっていくのかもしれません。

2018年4月6日金曜日

診療には常にストーリーに基づく根拠がある

プロの囲碁棋士の井山裕太さんの本を読みました。井山さんが史上初7冠のタイトルを取られたことは本当に有名なことです。その中でこんなエピソードが書かれていました。井山さんは小学生の頃からすごく強く、全国で優勝していました。しかしそんな強い中でも自分の棋譜は覚えていなかったそうです。なぜなら手合(囲碁の対戦)の時に必然性を持たず、場当たり的に思いつきで打っていたため、自分の棋譜を覚えていなかったとのことでした。確かにプロ棋士で、自分の棋譜を覚えていないなんて話は聞いたことがありません。井山さん曰く、プロ棋士は記憶力がいいから棋譜を覚えているのではなく、全体のストーリーを把握した上で打っているから、自然に棋譜を覚えることになる。つまり囲碁を打つ上でストーリーは非常に重要であるということです。実はこれは精神科臨床でも同じです。一時的ではあれ(特に診療の直後なら)自分の診療の全体のストーリーは明確に記憶しています。逆に、ストーリーなく場当たり的に思いつきでやっている精神科医の診療や面接は見ていればわかります。事実かくいう僕も、ストーリーがない時は師匠の先生が僕の診療を見て、「先生、ここノープランだね」と瞬時に僕が何も次の手が思いつかずに何となく診療していることを見抜かれます。

実はこれは患者さんから全体の話を聞かずにいきなり、「子供が癇癪を起こすのですが、そんな時はどうしたらいいのですか?」と聞かれても、答えられないことに通じています。つまり、全体のストーリーを知らずに対応(囲碁でいう次の一手)を述べることができないことと同じです。棋士も精神科医も全体のストーリーが見えて、初めて根拠を持って対応がわかるのです。もし全体のストーリーを知らずに即答できてしまう精神科医がいるなら、それは神がかった技術の持ち主(この場合も根拠はあるはず)か、その患者さんに関する情報とは関係ない知識や経験で答えているか、当てずっぽうかのいずれかでしょう。つまり、囲碁も精神科臨床も全てストーリーに基づく必然的な根拠がある上に対応(次の一手)がわかるのです。今日は複雑な話になってしまいましたが、囲碁(将棋も含めて)と精神科臨床の共通点の大きさをあまりにも強く感じたため、熱くなって書いてしまいました(笑)。