「あのとき、私がしてあげたのに、○○はお礼も言ってくれなかった」
誰しもが経験することだと思う。それって、○○さんにお礼を言ってほしかったんじゃなくて、自分の気持ちをわかってほしかったんだと思う。
「あのとき、私がしてあげたのに、○○はお礼も言ってくれなかった」
誰しもが経験することだと思う。それって、○○さんにお礼を言ってほしかったんじゃなくて、自分の気持ちをわかってほしかったんだと思う。
僕の記憶では、はじめて風呂を洗ったのは小学一年だったと思う。兄弟や家内がいてくれるので毎日ではないが、風呂を洗い続けて来た。ちゃんと洗えているのか壁面を触ってみる。すると、自分以外の人が洗ったときに垢がついている。それにいらだって自分で丁寧に洗ってみた。ところが悲しいことに、それでも垢がついているのだ。これまで誰かのせいにしてきたが、その人のせいではないようだ。僕もできていないのだから。それで洗剤で磨いたあと、しばらく置いてからシャワーの水で流してみた。すると垢がついている部分がほとんどなくなっていた。壁面の垢は誰かのせいではなく、洗い方のせいだった。気持ちが楽になった。自分を含めて誰かを批判していると、どうも心が楽じゃない。
またこの内容について書いてしまうのは、僕がそれをまだ自分のモノにできていない証拠だと思う。
ご飯を食べる、歯磨きをする、シャワーをするなど、自分がそのときしている行動を感じながらしたほうが、心のエネルギーが充電される気がする。マインドフルネスでは呼吸に集中するように言うが、それ以外でも人が生活でする行動はすべて、感覚を感じたほうがいい。逆に、ご飯を食べているのに次の予定を考えてしまうと、エネルギーが放電される気がする。
寝る、旅行に行く、自然を見る、人とおしゃべりする。これらで楽になるのは、それをしているときは他に意識が行かず、その瞬間の行動を感じているからだ。
人が何かをしながら他のことを考えてしまうものだ。それをゼロにすることは無理だろう。でも、意識できる時だけでも「いまの行動を感じる」ことができれば、心のエネルギーの放電が減り、充電ができると思う。それは遠くに行かなくても、日常生活の中で。
社会で生きていると、人に合わせる習慣が身に着く。そうでないと社会ではやっていけないからだ。「過剰適応」という言葉があるが、生きていたら当たり前にそうなる。それでいいんだと思う。その人は「過剰適応」のおかげで生きている部分もあるはずだ。
世の中は何かと人に呼称を付けたがる。でも、人ってそんなに簡単にひとくくりにできるものだろうか。新たな「呼称」が出てくるたび、そう思う。