2024年4月19日金曜日

生きるとは手放すこと

毎週楽しみにしている日経新聞の若松英輔さんの連載「言葉のちから」にこんな文章がありました。

生きるとは何かを得ることだと思っていた。今は、生きるとは手放していくことのように感じている。

僕も人生が進んでいくとモノを得て、知恵を得て、家族を得て、ずっと得ていくものだと思っていました。でも老眼が始まって見えないことを受け入れざるを得なくなった。体力任せな行動はとらなくなった。したいことがあっても睡眠を優先するようになった。会うかどうか迷う人には会わなくなった。子どもたちは巣立っていく。手放したくなくても勝手に手放すようになっていくのです。ただ、手放すことは決して嫌な感覚ではなく、むしろ身軽になっていく実感があります。ぼんやりしていた人生のフォーカスがどんどん合っていく感覚です。手あたり次第に広げていた好奇心はかなり収束して、数少ないいくつかのことに集中するようになりました。以前は許せなかったことが自然に許せるようになりました。いいことばかりではありませんが、トータルではとても幸せだと感じています。今の僕が「手放す」ことのすべての意味を理解しているとは思えませんが、死が来れば否が応でも物理的なものはすべて手放すことになります。生きることは手放すこと。人生を見事に表した至言であると思います。

2024年4月12日金曜日

言葉にできないときの方が人に伝わる

毎日いろんな方のお話を聞いています。みんな一生懸命に話をしてくれます。それで気づいたことがありました。人は自分の気持ちを誰かに伝えるために正確に言葉にしようとするけど、言葉にできないときの方が人に伝わることがあります。言葉にならない「なにか」のほうが人の心に響く。そう考えると人の気持ちで言葉にできるのは一部だけなのだと気づかされました。


2024年4月5日金曜日

人々は有名な人のストーリーを知りたがる

沢木耕太郎さんのエッセイに、世界は「使われなかった人生」であふれてる、というのがある。人々は有名な人のストーリーを知りたがる。無名の人が自分のストーリーを語っても人は聞いてくれない。人口全体では無名の人のほうが多く、トータルでは大きなことを成し遂げているはずなのに、である。

この春からNHKで「新プロジェクトX」が始まるらしい。プロジェクトXが放送されていたころ、僕は大学生だったように思う。ひたむきに愚直に一つのことを成し遂げようと奮闘した人たちに感動した記憶がある。大きなことを成し遂げたはずなのに、光が当てられていなかった人々に光を当ててくれるからである。

人への判断基準は昔から人格よりも有名か無名かが用いられてきた。その価値観に警鐘を鳴らしてくれる番組である。そう考えるとNHKのプロデューサーはすごいと言わざるを得ない。72時間、逆転人生、バタフライエフェクト。僕が知っているだけでも素晴らしい番組はたくさんある。こんなアイデアはどこから来るのかと感服する。いつか視聴者の目には見えないNHKのプロデューサーや番組制作スタッフの努力に光を当てる番組を作ってほしい。

2024年3月29日金曜日

例外のないものはない

僕がブログに書きたいなと思う内容が思いつくのは「これは普遍的なはずだ」と思う時です。一方でいつも感じる矛盾があります。果たして普遍的なものなんてあるのか。ブログで書いている内容は僕一個人の偏った視点、限られた視野の中で見えていることに過ぎない。それでも自分の考えをまとめようとすると「こんな場合は当てはまらないな」と例外が浮かんできて自分の考えがどんどんぐらついてくる。例外が多すぎると話になりませんが、全方位からの視点を受け入れ、万人が同意するものはあり得ないわけです。例外探しを徹底してしまうと本体の自分の考え自体が消滅してしまう。なので文章にするときの最後の一押しは自分の信念によるものになっています。いや、それでいいんじゃないかと思っています。



2024年3月22日金曜日

伝え方より聞き方

 ずいぶん前のことです。僕がゴルフの練習をしていると、隣でレッスンを受けている中年女性がおられました。教えているコーチが尋ねます。

コーチ:最近、悩んでいる部分はありますか?

女性:ボールがどうしても左に行くんです

コーチ:あ、それはね、○○で△△で、××なことが起こっているからです。例えばね、~ってあるじゃないですか~は・・・(しばらく話続ける)

女性:あ、そうですよね・・・(それ以上話すのをやめる)

医者をはじめ教育する立場のある人に共通していることがあります。それは伝え方(内容も含めて)は習いますが、教えられる側からの話の聞き方は習っていないということです。いくら教える立場、教えられる立場であっても、それも人のコミュニケーションです。一方的に教えるだけでは効果は下がるでしょう。円滑なコミュニケーションがベースにあり、教えられる側が悩んでいること、わからないことを自由に伝えられ、教える側はそれを把握してはじめて効果的な教育につながります。臨床も同じです。

教育する立場にある人への教育は伝え方と伝える内容であふれています。もちろん伝え方は大切ですが、聞き方があってはじめて伝え方が生きてくるのだと思います。