2026年3月13日金曜日

逆境を支えるもの

 引き続き、村木厚子さんの私の履歴書を読んでいる。村木さんの私の履歴書は、これまで読んできた私の履歴書の中で、多くの人にとって最も役に立つと思う。

 勾留中の村木さんを支えたものは2つあったそうだ。一つは好奇心、もう一つは自分なりの危機対応方針である。

 好奇心とは、拘置所での生活はすべてが初めてだから、そこでの生活はどんなものなのか、どんな人たちがいるのか、どんな時間が流れるのかに興味を持って観察したと言う。

 自分なりの危機対応方針とは、それまでの人生で得た処世術としての「今できること」「次に手が打てること」だけを考えること。逆境にあって、人は先のことまであれこれ考えてしまうが、今できることはそれほど多くない。それに気づくと心が落ち着くと言うのだ。

 村木さんは「今できること」「次に手が打てること」の具体例を書いてくれている。検察側からの裁判の証拠が開示されたとき、その資料は積み上げると80㎝ほどあったらしい。村木さんは無実なのだから裁判に勝つために、検察側の証拠に矛盾点はないのか、おかしな点はないのかを見つけなくてはならない。村木さんはそれをすべて2回ずつ読むと決めたそうだ。1回だけでは読み落とすかもしれない。ちょっと時間を置いて読み返すのが大事だと。そうやって村木さんは検察側が証拠を改ざんしていたことを突き止めた。

 私の履歴書は、ほとんどの場合、初回は自分の近況の概観に始まり、「私の半生は○○だったので、みなさんのお役に立てば幸いだ。一か月間お付き合い願いたい」という常套文句のあと、2回目以降は生まれたときのこと、家族の歴史、学歴、苦労と活躍の歴史が並んでいく。しかし、村木さんは違う。冤罪で逮捕された事件から始まり、どうやってそこを乗り越えて来たのかが続くのだ。これこそ読者の役に立つものではないかと思った。人はみんな逆境を経験する。単なる人生の振り返りの読み物ではなく、逆境をどう乗り越えればいいかの一例をご自身の経験を通して示してくれるのだ。しかも、とてつもなく辛かった経験を振り返ることは村木さんにとって辛い作業だったはずだ。それでも書いてくれている。これほど人の心に届きやすく、役に立つものは他にないと思う。人生なんて楽しいときは誰だって過ごせる。逆境が来たときにそれをどう乗り越えるかが肝要である。

 村木さんがこんなことまで考えて、私の履歴書を書いておられるかはわからない。しかし少なくとも、人の役に立つ文章であることは間違いない。

2026年3月6日金曜日

人への支援

3月の日経新聞の私の履歴書は元厚生労働次官の村木厚子さんだ。その中でこんなことを述べておられた。

 世の中には「いい人」「悪い人」がいるのではない。周囲に十分な支援がなく、生きづらさを抱えていることで道をそれてしまうこともある。

 この一文を見たとき、覚せい剤などの薬物依存症のことを思い出した。薬物依存症の人の多くは、薬物の作用による依存よりも、精神的な孤立によって薬物に依存する。薬物がその「孤独」を 埋めてくれるからだ。こうやって文章を書いていると、違法薬物を使用してしまって、法的な措置を受けている患者さんたちのことを思い出した。

 人への支援を一生懸命にされている人たちは、支援が様々な問題を解決することを知っているのだと思う。村木さんの文章を読んで気づかされた。

2026年2月27日金曜日

人の成熟度

 どんな苦しい状況でも感謝している人がいる。どんなに楽な状況でも不満を感じる人がいる。人の成熟度は、ありがたいと感じられるかどうかで決まる気がする。

2026年2月20日金曜日

「くよくよ」の時間を減らす

 僕は起こってもいないことをくよくよ考える癖がある。長年そんなことをしてきたので、実際どれくらいの時間を「くよくよ」に使っているのか考えてみた。数秒のものから数十分のものまで、しかも断続的にあるので、合計するとおそらく1日で1時間から2時間くらいは使っている感がある。

 人生という限られた時間を何に使うのかは自分次第である。それは行動だけではない。「考え」も行動だ。むしろ、目に見える行動よりも「考え」のほうが自由度がはるかに高い。行動にはできない行動もあるが、考えるのは無限だからだ。

 何を考えて人生の時間を使うのか。残りの時間も「くよくよ」で時間を使うのかと思うと、ゾッとした。まったくゼロにはできないにしても、せめて1回の「くよくよ」を数秒にすれば、1日10分までには抑えられる(と思う)。それでできた時間をもっと違うことに使いたい。


2026年2月13日金曜日

人との関係は、どれほど情の交流を重ねたかで決まる

人間関係には、一度きりの出会い、知人、 友達、先輩、後輩、恋人、夫婦、祖父母、孫、親子。その関係にはそれぞれの「意味づけ」があるだろう。だからと言って、必ずしもその人が大切なわけではない。会った回数ではない、血のつながりではない。もっと大切なことがある。それは、どれほど情の交流を重ねたか。それによって相手を思う気持ちは違ってくるのだと思う。「産んだ親より、育てた親」という言葉があるように。